8月2日 神の宮の建築と竣工の時

すべてをみこころによる計画のままに行う方……。《エペソ人への手紙 一・11》

私たちが神の知恵を信じることは、次のことを意味する。救いの御業を進めるには、神は確固たる目的と計画を持っておられるに違いないと考え、また実際にその通りにお持ちであるということである。

神が設計しなかったとしたら、被造物はどうなっていたであろうか。海の魚、空の鳥、それらはみな偶然の産物なのだろうか。いいえ、違う。骨、関節、筋肉、筋、血管、細胞の一つひとつは、神の無限の知恵によって設計されたのである。その青写真に従って、神は全てのことを働かせて、被造物を完成なさった。それゆえ、被造物のそのような構造や組織を見ることによって、神が存在しておられることをあなたは知り得るのである。

このように、神は被造物の全てを支配しておられ、創造の御業においてはっきりと神を認められるのである。ならば、私たちに与えられている恵みにおいて、神をはっきりと認められないだろうか。

神の御心によって、これら被造物は創造の初めから支配されている。一方、恵みにより、キリストにあって新しく造られた者が、人間の自由意志という当てにならない気分に、支配されなければならないのだろうか。

神の摂理をご覧なさい。「雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちること《マタイ 十・29》」はない。このことを、誰も知らないのだろうか。「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。《マタイ 十・30》」神は、私たちの経て来た幾多の「悲しみ」や「苦難」を、或る時は秤で、また或る時は天秤ばかりで量られ、記録なさっているのである。

そうならば、神は摂理においては認められるが、恵みの中においは認められないのだろうか。種子の殻が神の知恵によって予め用意されたのに、中身の実が偶然に詰まることがあるだろうか。いいえ、違う。神は、創造の最初から、どのようにして被造物が完成するのかをご存じである。神の恵みの御業も同様である。

神の宮を建て上げるため、美しく彩られた礎石を神は置かれた。それは、キリストご自身である。神は、この礎石をご覧になっている。そればかりではない。御子の血潮により、神の宮を建て上げるため、天然の石切り場から切り出され、選ばれ、磨かれた一人ひとり(一つひとつの石)が、神が予めお定めになった場所に据えられているのをご覧になっているのである。そうである。神は、すべてをご覧になっている。隅々に至るまで、土台から屋根まで、土台を支えている礎石から尖塔までをご覧になり、ご存じなのである。神は、予め設計なさった場所に、据えるべき一つひとつの石(一人ひとり)について、明確にご存じである。また、建物全体がどれ程の大きさになるかご存じである。更に、最後に置かれる石が、「恵みあれ。これに恵みあれ」と叫びつつ、神の宮が完成する時もご存じなのである。

最後の時、神によって選ばれた全ての憐れみの器に対し、神はご自分の意志の通りに御心をなされたことが、全ての人の目にも明らかに分かるのである。即ち、恵みによって選ばれ、聖められ、栄化された一つひとつの石(一人ひとり)に対して、神の目的は成就されたこと、また、一つひとつの石(一人ひとり)に対し、神はご自身の御名のために栄光を現されたことが、全ての人の目にも明らかに分かる時が来るのである。

注:「摂理」とは、神が介入してくださり、神の目的や計画に向かって、不思議な方法で人が導かれることを指す。

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