10月29日 主の祈り

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ……。』《マタイの福音書 六・9》

主の祈りは、全ての真の祈りの型となっている。

子とする御霊を受けた《ローマ 八・15》」ことにより、祈りは「私たちの父よ」、で始めなければならない。私たちが「立って、父のところに行こう《ルカ 十五・18》」と言い得るようになって初めて、神に喜ばれる祈りとなる。「子とする御霊を受けた」ことにより、直ぐに「天にいます私たちの父」の威厳を認めるようになる。そして、「御名が聖なるものとされますように《マタイ 六・9》」と敬虔に主をあがめる祈りが、至高のお方へと上るのである。「アバ、父よ《ローマ 八・15》」と、子どものように片言で祈っていたが、成長するに連れ「聖なる、聖なる、聖なる《イザヤ 六・3》」と神に向かい、セラフィムが厳かに叫ぶような祈りへと変えられて行く。

大きな喜びのある礼拝をささげることから、燃えるようにみことばを伝える宣教の霊が注がれるまでには、僅かに一歩の歩みしかない。それは至極当然のことだが、子として御父を愛することから生まれる。また「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように《マタイ 六・10》」と、敬虔に御父をあがめることから生まれるのである。

次に、心から神を信頼する祈りのことばが続く。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。《マタイ 六・11》」

更に、信仰者は御父に依存し生きているだけではなく、聖霊の光に照らされ、自らの罪深さに目が開かれる。それゆえ、次のように憐れみを乞い願うのである。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。《マタイ 六・12》」そして、罪赦され、信じる者にはキリストの義が転嫁される。信仰者は、神に受け入れられたことを知り、常に聖くされることをへりくだりつつ懇願して言う。「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。《マタイ 六・13》」

真に罪赦された者は、再び罪を犯しはしないかと不安になる。御父に義と認められた者は、聖化を切望するようになる。「私たちの負い目をお赦しください」とは義認である。「私たちを試みにあわせないで」とは積極的にではないが聖化を求める祈りであり、「悪からお救いください」とは、積極的に聖化を求める祈りである。

このように祈りをささげて来た結果、次のような勝利の賛美のことばが続く。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」私たちの王は、摂理によって万物をご支配しておられる。恵みにより、海へと流れる河川から、地の果てに至るまで、統べ治めておられる。御父の支配は尽きることがないことを、私たちは喜んでいる。

このように、私たちがキリストの中で子とされたことを実感することから、祈りが始まる。更に、万物の支配者である私たちの主との交わりへと導かれる。主の祈りは短くまとめられているが、私たちの祈りを導く型である。

主よ。私たちに、このように祈ることを教えてください。

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