わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。《コリント人への手紙 第二 十二・9》
神の御心を成し遂げるべく、忠実に神に仕えるには、どうあるべきだろうか。また、神の奉仕を勝利の内に成し遂げるためには、どうすべきだろうか。その第一の資質は、自らの弱さを知ることにある。
神の戦士が、自らの力を誇示して戦いに赴くなら、どういうことになるだろうか。また、「私が勝利を得るに決まっている。私の右の手と、天下無双の私の剣により、勝利は我がものである」と豪語するなら、どういうことになるだろうか。敗北は、そう遠くない内に訪れる。神は、自らの力を依り頼む者と共に出陣することはない。このように、自らの力にうぬぼれ、勝利を確信することは、致命的な誤算をしているのである。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は言われる《ゼカリヤ 四・6》」からである。自らが持つ優れた武力を誇りとして出陣するなら、そのきらびやかな旗じるしを、泥で汚して帰って来ることになる。また、落ち武者となって逃げ帰って来ることにもなる。
神に仕える者は、神ご自身の方法と力によって、神に仕えなければならない。神はそのように、人の力に依り頼む奉仕を受け入れることは、決してなさらない。神の御力を助けとせずに人が行ったことは、神は決してご自身の働きと認めることはない。単なる地が産み出したに過ぎない産物は、神に見捨てられる。神が収穫される産物は、種が天から蒔かれ、神の恵みの雨に潤された、神の愛の太陽によって熟したものだけである。神は、ご自身のものをあなたの中に入れる前に、先ずあなたの持っている全てのものを取り出し、空にされる。最上の小麦をもってあなたの穀倉を満たす前に、先ず穀倉をくまなく掃除される。神の川には水が満ちている。しかし、地上の泉からは一滴たりとも、その川に流れ込んではいない。主の戦いにおいて、神は人の力を必要としない。ご自身が与える力以外、主の戦いでお用いになることはない。
あなたは、自らの弱さを嘆いているだろうか。勇気を出しなさい。主があなたに勝利をお与えになる前、あなたは自らが弱い者であることを自覚する必要があるのである。あなたは、今まで持っていた全てのものが取り出され、空にされているだろうか。ならば、神が満たしてくださる準備が、あなたに整ったのである。また、あなたは今、落胆しているだろうか。ならば、やがて高く上げられる準備が、まさにあなたに整ったのである。
「私が弱い時にこそ、私は強い。 / 恵みは私の盾、キリストは私の歌である。」
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