11月19日 愚かな議論を避けなさい

愚かな議論……論争は避けなさい。《テトスへの手紙 三・9》

私たちの一生は短い。より有益に過ごすためにはどうしたら良いのかと、そのことに意を用いる方が遥かに良い。大して重要ではない問題を議論し、時間を浪費するより、むしろ良い業に励むべきである。古代のスコラ哲学者たちは、実生活を送る上で、全く重要ではない問題を絶えず議論することにより、大きな災いを招いていた。私たち地域教会も、教理上難解な点や、重要でない問題を巡り、つまらない論争を繰り返しているなら、大きな苦しみを経験することになる。互いに主張すべきことを述べ尽くし、論争を繰り返した結果、互いに今まで以上に知識が身に付くだろうか。そのように議論を繰り返すことで、「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます《Ⅰコリント 八・1》」という、互いの間の愛が少しでも増し加わるだろうか。決して、そうはならない。このように、不毛な畑にいつまでも種を蒔き続けるのは、愚かなことである。

聖書が沈黙している問題について、探求したり、議論したりすることはことごとく、愚か者のすることであり、賢い人はそれを避ける。その問題とは、神にのみ属する神秘的なこと、解釈が難しい預言について質問すること、人の定めた集会に参加する際の儀式をどうするかについて質問すること等である。私たちのとるべき態度は、これらの愚かな質問をすることでもなければ、それに答えることでもない。「愚かな議論……論争は避けなさい」ということである。私たちが心掛けるべきことを、使徒パウロは、《三章8節》で次のように語っている。「このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。」このことを心掛けるなら、私たちは価値のない、争い好きな人が巻き起こす、不必要な論争に意を用いることはなくなる。より有益なことに、思いと時間を割き、従事するようになるであろう。

しかし、このような愚かな質問とは正反対の質問もある。私たちはそれを避けず、誠実かつ公正に答えなければならない。その質問とは、次のことである。私は、主イエスを信じているだろうか。私は心の霊において、刷新されているだろうか。私は肉に従って歩まず、御霊に従って歩んでいるだろうか。私は、恵みの内に成長しているだろうか。私の語ることばは、私を救ってくださった神の教えをあがめているだろうか。私はさながら、しもべが主人の帰りを待ち侘びるように、主の再臨を待ち望んでいるだろうか。イエスのために、他に多くのすべきことがないだろうか。

このように自らに問うことにより、私たちの思いは必然的にキリストに向けられる。今まで愚かな議論に耽っていただろうか。そうであるなら、批判することで費やして来た自らの能力と時間を、更に有益な奉仕に向けようではないか。

今こそ、平和を作る者となろうではないか。そして、私たちが語る教訓と、私たちが示す模範により、「愚かな議論を避ける」ように人々を導こうではないか。

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