1月1日 主にあって楽しみ喜ぼう

私たちはあなたにあって楽しみ喜び……。《雅歌 一・4》

神によって楽しみ喜ぼうではないか。悲哀に満ちた琴の音によって、新年の門を開くのではない。立琴の喜びに満ちた美しい調べと、シンバルの歓喜に満ちた高い音に合わせて、新年の門を開くのである。

さあ【主】に向かって喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって喜び叫ぼう。《詩篇 九十五・1》」主に呼び出され、主を信じ、選ばれた私たちは、内にある悲しみを追い出し、主の御名によって「主に堅く立つ信仰の旗」を掲げよう。世の人は今遭遇している苦難を嘆くだろう。しかし、苦い「マラの水」を甘くする木である十字架を持つ私たちは、喜びをもって主を崇めよう。そして次のように祈ろう。「永遠の御霊、私たちの慰め主よ。あなたの住まう神の宮である私たちは、イエスの御名を崇め、ほめたたえることを決して止めることは致しません。」一大決心をして、私たちは心から喜んで、栄光の冠をイエスにささげなければならない。主のご臨在の中にありながら、悲しむなら、私たちの花婿を辱めることになる。そんなことをしてはならない。私たちは、天の御国で主をほめ歌う歌い手となるように定められている。やがて私たちは、新しいエルサレムの中心にまします、主のご臨在の御前で歌うことになる。その前に今この地上で、永遠の賛歌を練習しようではないか。

楽しみ喜ぼう。」「楽しみ喜ぶ」という二つのことばは、一つの意味である。と同時に、二重の喜びを示している。祝福に祝福が増し加えられるのである。今、主の内にあって喜ぶことに、限界や制限を持つ必要があるだろうか。恵みに与った人々は、主をヘンナ樹やナルドの香油のようにも、菖蒲とシナモンのようにも見ている。まして、天にはどれ程素晴らしい香りがあることだろう。

私たちは、「主にあって楽しみ喜ぼう。」最も重要なことは、この「主にあって」ということばである。このことばはさながら、料理のメインディッシュであり、木の実の種子であり、この聖句の中のいのちである。イエスの内には、素晴らしい幾多の天が隠されている。無限の祝福の川が、イエスから流れ出ている。そうである。この川を満たしている一滴一滴が、イエスの中にあり、イエスから発しているのである。

麗しい主イエスさま。主は今、私たちのものです。どうかこの年、私たちにあなたの尊さを知らせ、この年の元旦から大晦日まで、楽しみ喜ぶことを得させてください。正月を、主にある楽しみによって始め、師走を、イエスにある喜びによって閉じさせてくださいますように。

注:「ヘンナ樹」とは、イスラエルの温暖地で栽培された低木。房状に、白い小さな花を沢山つけた小枝は、芳香のゆえに婦人たちが身に着けた。また、その葉は粉末にし、婦人たちが爪を染めるのに用いた。

「ナルドの香油」とは当時、 王さまが所有し、自由に使用していた。非常に高価なもので、一般庶民は結婚式の最初の夜、花嫁が嫁入り道具の一つとして持参し、からだに塗り、一生に一回使っていた。石膏の壷に封印して保存されていた。一壺の値段が「三百デナリ」、1デナリは労働者一日分の賃金、約1年の収入に相当するものであった。

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