しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。《ルカの福音書 二・19》
この聖句には、祝福された女性マリアの側で行った三つの働きが記されている。その働きとは、彼女の内に与えられている「三つの力」によって成されたものである。第一の力が「記憶」である。彼女は、これらすべてのことを記憶したのである。第二の力が「愛情」である。「マリアは、これらのことをすべて心に納めた」、つまり一連の出来事に親しみを持ち、好意を抱いたのである。第三が「知性」である。「マリアは…思いを巡らしていた」のである。このように、彼女が見聞きしたことについて、記憶・愛情・知性のすべてを彼女は働かせたのである。
愛する皆さん。主イエスについて、あなたが聞いたことを覚えていなさい。また、主があなたにしてくださったことを忘れてはならない。あなたの心を、マナを入れる金の壷のようにしなさい。過ぎた日々に食した天よりのパンであるみことばを、その中に蓄え、いつまでも覚えていなさい。
キリストについてあなたが感じた一つひとつのこと、キリストについてあなたが知り得たすべてのこと、更には、あなたがキリストを信じたことの一切を、あなたの記憶の中に蓄え、深い愛情を持ち、とこしえにキリストを抱き続けなさい。あなたの主であるキリストのご人格を愛しなさい。あなたの心という石膏の壷を、主のために差し出し、その壷を打ち砕きなさい。そして、あなたが主を愛しているという証に、主への愛という高価で尊い香油を、釘の跡が残る主の御足の上に注ぎなさい。
主イエスについて、あなたの知性を働かせなさい。あなたが読んだみことばを黙想しなさい。表面的に知り、理解するのではなく、みことばの意味を深く知る者となりなさい。湖水をかすめる燕のようにではなく、湖底の最も深い所にもぐる魚のようになりなさい。
あなたの主のもとに留まりなさい。主を、一夜の宿を共にする旅人のように扱ってはならない。主を無理にでも引き留め、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています《ルカ二十四・29》」と告げなさい。主にすがりなさい。主を行かせてはならないのである。
冒頭の聖句の 「思い巡らす」とは、「 重さを量る」という意味である。即ち、「これらのことをすべて」正しく評価するてんびん秤を用意しなさい、ということである。しかし、主キリストを量ることのできる秤がどこにあるのだろうか。「見よ。国々は手桶の一しずく、秤の上のごみのように見なされる。見よ。主は島々をちりのように取り上げる。《イザヤ四十・15》」このように偉大な主を、誰が取り上げることができるのだろうか。「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。《イザヤ四十・12》」このように偉大な主を、私たちはどのような秤で量るというのであろうか。
そうではあっても、あなたの知性で理解できないのなら、あなたの愛情で抱きなさい。あなたの霊によって主イエスを理解し、捉えることができないのなら、愛情の両腕で主にすがり付きなさい。
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