沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。《マタイの福音書 十四・30》
五つのパンと二匹の魚で、成人男性だけで五千人の人たちを養われたイエスは、群衆を解散した後の夕暮れ時、弟子たちだけで先に向こう岸に行くようにお命じになった。その晩、湖は大嵐であった。彼らの乗っている舟は、湖の真ん中あたりで、波に弄ばれていた。夜中の3時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、弟子たちの所に来られた。イエスは言われた。「『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペテロが答えて、『主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください』と言った。イエスは『来なさい』と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。ところが、強風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ。助けてください』と叫んだ《十四・27~30》」のである。
主のしもべにとって、ペテロのように沈みかける時が、祈りをささげるべき時である。ペテロは、危険な行動に出る前に、祈りを怠った。しかし沈み始めた時、危険に気が付き、主に祈った。彼の叫ぶ祈りは遅くはあったが、手遅れではなかった。
身体に苦痛がある時や精神的に苦悩がある時、難破船が波によって岸に打ち上げられるように、痛んだ身体と重い心を引きずるようにして、私たちは祈りに駆り立てられる。狐は身を守るため穴に逃げ込み、鳥は森に隠れ家を求めて飛んで行く。試みの中にある信仰者は、救いを求めて恵みの御座へと急ぐのである。天の父なる神の恵みの御座は、いわば避難港である。その港とは、即ち、あらゆる時に祈ることである。嵐に悩まされた無数の船が、祈ることによって港に避難して来た。嵐が来た時、私たちは祈りの帆を全て広げ、急いでその港に逃げ込むのが賢明なのである。
短い祈りでも、十分良いのである。ペテロの口をとっさについて出た祈りは、非常に短いことばであった(僅かに3つのことばである。“ Lord, save me.”)しかし、その短いことばの内に、彼の願いは全て凝縮されていた。祈る時に大切なことは、長々と言葉を並べ立てることではない。真実に、真剣に語ることである。どうしても解決して欲しい必要が差し迫った時こそ、「簡潔に、要領を得て祈る」学びの時である。私たちの祈りの中に、ことばをきらびやかに飾る「高慢」という長い尾羽がなく、空を舞いかけるための強い翼をより多く持つなら、祈りは更に良いものとなる。祈りにおいて冗長に流れることは、小麦にもみ殻がついているようなものである。もみ殻が不要であるように、冗長にわたる言葉数も不要である。本当に重要なことは、簡潔に言い表せる。長々とした祈りをささげるが、本当に祈りたいことは、ペテロと同じように、短い嘆願で言い表せるのではないだろうか。
私たちが窮境に陥った時は、主が働いてくださる絶好の機会となる。私たちが切羽詰まり、直ぐに悲鳴にも似た叫び声を上げると、イエスは直ちに聞いてくださる。主はその声に心を動かしてくださり、主が御手を動かさずにおられることはない。私たちは万策尽き、これで終わりだという時に、主に訴える。私たちの祈る時は遅すぎたのだろうか。そんなことはない。主は速やかに御手を動かし、直ちに有効な手立てを講じてくださる。私たちは、まさに苦難の大波に飲み込まれてしまうのだろうか。その時こそ、自らの魂からの叫びを、私たちの救い主に向かって上げようではないか。主は、決して私たちを滅びるままになさらない。私たちはこのことを知って、魂の安息を得るであろう。私たちが何も出来ない時、イエスは全てのことを成される。イエスの力強い助けを願おう。そうすれば、全てが善くなる。
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