2月1日 主の道について歌え

彼らは【主】の道について歌うでしょう。【主】の栄光が大きいからです。《詩篇 百三十八・5》

クリスチャンが主の道を歌い始めるのは、十字架の下で初めて重荷を下ろした時である。天使たちは、天上の神の御座の周りで、絶えず主を賛美している。その天使の歌も、罪を赦された神の子の魂の奥底から湧き出る最初の歌には、遠く及ばない。罪赦された者の賛美は、美しく、感動に満ちている。『天路歴程』の中で、ジョン・バニヤンがこのことをどのように書き表したか、ご存じのここと思う。哀れな「巡礼」が、遂に十字架の下にたどり着く。「巡礼」は十字架の下で、背負って来た重荷を下ろした。その時、三度も飛び上がり、喜びの歌を歌いながら旅を続けた、とバニヤンは言っている。

「ほむべきかな十字架、ほむべきかな墓よ。 / まことにほむべき方は、 / 私のために辱しめを受けたそのお方です。」

信仰者よ。いつ、あなたを縛っていた縄目から解放されたのだろうか。その日のことを覚えているだろうか。イエスがあなたとお会いしてくださった場所を、覚えているだろうか。その時、主は次のように仰った。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。《エレミヤ三十一・3》  わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。《イザヤ四十四・22》  それゆえ永久に、その背きの罪を思い出すことはしない。あなたに罪の責めを負わせるようなことは、永遠にしない。」

主イエスよ。罪を犯した痛みから解放してくださるとは、何と麗しいことでしょう。

主が初めて私の罪を赦してくださった時には、私は喜びのあまり、思わず躍り上がった。そこは小さな教会堂であった。あの日、そこで救われ、解放された。その教会堂から家に帰る道々、道端の石ころにも救いの証を聞かせたいと思った。私の魂は喜びに溢れていた。謀反人のかしらである私の全ての罪を、イエスが拭い去ってくださった。あの日は雪であった。空から舞い落ちる雪の一片ひとひらにも、この驚くべきイエスの愛を語り聞かせたいと思った。

しかし、主に喜びの賛美をささげたいと願う動機は、信仰生活の初期だけにあるのではない。生ける限り、主の道には賛美をささげる恵みが溢れている。絶え間のない主のいつくしみを経験する者は、次のように言う。「私はあらゆるときに【主】をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。《詩篇 三十四・1》」

「新しい歌を主にささげよ。 / あなたのいつくしみは、朝ごとに新しい。 / 荒野の旅路を進む我らの上に。」

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