2月25日 迫り来る御怒り

だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。《マタイの福音書 三・7》

嵐が過ぎ去った後、田舎道を歩くことがよくある。喜びを味わう、楽しいひと時である。雨に打たれたばかりの野草からは、清々しい香りがほのかに匂い立っている。その香りを嗅ぐことが出来る。また草木の葉からは、まばゆいばかりの光が放たれているのを、目の当たりにすることも出来る。雨の雫が太陽の光に照らし出され、純度の高いダイヤモンドのように輝いてる。その輝きに、目は奪われる。

これが、クリスチャンに与えられている「位置的真理」である。救い主の頭上に、神の裁きという大嵐が直撃した。その嵐が過ぎ去った後の道を、クリスチャンは通っているのである。その道を歩きながらも、悲しみの雫が数滴降って来ることはあろう。しかしそれは、いつくしみという雲から滴り落ちていることを忘れてはならない。イエスは、クリスチャンを励まそうとなさっている。わずかに経験する悲しみは、滅びに定められているから与えられているのではない。「私は救われている」と、クリスチャンが確信を抱くため与えられているのである。

しかし、大嵐が近づいて来る様子を見る時、恐ろしさに震え上がることがある。風が激しく吹き始め、黒雲が垂れ込める。空を飛ぶ鳥は懸命に翼を羽ばたかせるが、激しい風に押し流されている。家畜は恐れのために頭を垂れている。太陽は全く姿を消し、空は刻一刻と暗くなる。あたかも天が怒りの形相を呈しているかのようである。時々、熱帯地方でハリケーンが発生したというニュースを聞く。ハリケーンが上陸するのか否か、人々は不安の中で待ち続けるしか術はない。暴風が怒り狂い、樹木を根こそぎにし、岩をも吹き飛ばし、人家も押し倒してしまう。このように、悲惨な光景を、恐怖心と不安の中で待つだけである。

罪人よ。このように、大嵐やハリケーンが近づきつつある様子こそ、罪人の置かれている「位置」を良く描写している。まだ、裁きの時に降る火の雨は降り始めてはいない。しかし、やがて火の大雨を降らせる雲は、確実に近づいている。恐ろしい風は、あなたのもとには未だ吹いて来てはいない。しかし、大砲のように全ての物をたちまち破壊する大嵐は、神のみもとから吹いている。洪水は、まだ憐みによって堰き止められている。しかし、その水門は今にも開かれようとしている。神の雷鳴は今なお倉に納められている。しかし見よ、嵐はすぐそこまで来ている。神の御怒りの時は、いかに恐ろしいものか。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する《ローマ 十二・19》」と仰せられる神が、復讐の衣を身にまとわれ、罪に対する怒りに燃え、すぐそこまで近づいておられる。

どこに逃れたら良いのだろうか。逃れの場所はどこにあるのだろうか。どこなのだろうか。罪人よ。あなたはどこに頭を隠し、どこへ逃げようとするのだろうか。どうか、憐れみの御手が、今あなたをキリストのもとに導いてくださいますように。逃れの場所は、キリストの内にある。

キリストは、福音の中で、無代価であなたに提供されている。主の引き裂かれた脇腹は、避け所となる岩である。あなたは「私には主が必要である」と知っている。主を信じ、あなた自身をキリストにゆだねなさい。そうすれば、神の御怒りは永遠に、あなたを過ぎ越すのである。

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