2月26日 救いは主のもの

救いは【主】のものです。《ヨナ書 二・9》

救いは、すべて神の御業である。

自分の背きと罪の中に死んでいた《エペソ 二・1》」魂をよみがえらせることが出来るのは、神おひとりである。また、その魂の霊的生活、霊的いのちを守られるのも、神おひとりであることを忘れてはならない。神は「アルファであり、オメガ《黙示録 一・8》」であられ、また「救いは【主】のものです」というお方なのである。

もし、救われた私が祈り深い者なら、それは神が私をそのように導かれたからである。もし、救われた私に恵みがあるなら、それは神の賜物である。もし、救われた私が一貫して調和のある生活をしているなら、それは神がご自身の御手で私をお支えくださっているからである。私が信仰生活を守ることが出来るのは、自らの力や働きによるのではない。神ご自身が、先ず私の内に御業をなさってくださるからである。私の内にある善きものは全て、主から来るものである。罪は私自身が犯すものであるが、私が義の道を歩むことが出来るのは、ひとえに、そして最初から最後まで、神の導きによるのである。

もし、救われた私が霊的な敵を撃退したとしたら、それは主が私の腕に御力を授けてくださったからである。私は人々の前で、ささげ切った聖い生活をしているであろうか。もしそうなら、それは「私でなく、私の内に生きておられるキリスト《ガラテヤ 二・20》」である。私は聖別されているであろうか。もしそうなら、私が自分自身を洗い清めたのではなく、聖霊が聖別してくださっているのである。私はこの世から分離しているであろうか。もし分離しているなら、「すべてのことを働かせて益としてくださる《ローマ 八・28》」神が、私の益となるために、私を懲らしめてくださったことによるのである。私は知識において成長しているであろうか。もしそうなら、それは偉大な導き手であるお方が、私を教えられたからである。

私が身に着けている善きものの全ては、天におられる芸術家が形造ってくださったものである。私が必要としていることは全て、神の中にある。しかし私の中にあるものは、罪と惨めさだけである。「神こそ、わが岩。わが救い《詩篇 六十二・2》」である。

私は、神のみことばによって養われているであろうか。神のみことばを魂の食物とし、みことばに支えられるように助け、導いてくださるお方は、神である。私は天から降るマナを食べて生きているであろうか。そのマナとは、受肉されたイエス・キリストである。私はキリストの「肉を食べ、その血を飲んでいる《ヨハネ 六・53》」であろうか。私は絶えず新しい力を受けているであろうか。その力はどこから来るのだろうか。「私の助けは、天地を造られた主から来る《詩篇 百二十一・1》」のであり、イエスなしでは何もすることは出来ない。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。《ヨハネ 十五・4》」

主よ。ヨナが大魚に飲まれ、海底で学んだことを、今朝、この密室の祈りの中で、私に学ばせてください。「 救いは主のものです。

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