6月17日 主よ、お救いください

【主】よ お救いください。《詩篇 十二・1》

この祈りのことばは、実に素晴らしい。短いが、時にかなったものであり、意味深長であり、そして実に示唆に富んでいる。

ダビデは「敬虔な人は後を絶ち、誠実な人は、人の子らの中から消え去った《詩篇 十二・1》」ことを嘆いた。それゆえ、心を天に向け、主に懇願した。人が神のみもとから去っても、ダビデは創造主のもとに飛んで行った。彼は、明らかに自らの弱さを覚えていた。そうでなければ、救いを求めて叫ぶことはなかったであろう。

しかし同時に、ダビデは、真理のために心から自分の力を尽くそうとした。というのは、「救い」ということばは、私たち自身が、何もしなくても良いということではないからである。この短い祈りには、3つの特徴がある。第一に、単刀直入である。第二に、求めている内容を明確に知っている。第三に、祈りのことばを明瞭に、しかも「Help, Lord」と、一語一語をかみしめながら語っている。信者の中には、長々と、とりとめのない祈りをささげる者があるが、この祈りは、そのような祈りに遥かに勝る。

詩篇記者は、よく考え抜いた祈りをささげるため、真っ直ぐに自分の神の御許に向かい、急ぎ、近づいている。詩篇記者は、自分が何を求めているのかも、どこで求めたらよいのかも知っているのである。

主よ。私たちにも、同じように祝福された方法で祈ることを教えてください。

この祈りをささげる機会は、頻繁に訪れる。神の摂理により、私たちは苦難に会う。

試みを受けている信仰者は、先ず人に頼り、人に救いを求める。そして、人には救いがないことを知る。その時、その人にとって、これは何とうってつけの祈りとなることであろうか。

自らが研究している学説で難問に逢着した研究者は、偉大な教師である聖霊に向かい、このように叫び求める。「【主】よ お救いください。」こうして、実際に助けを得、解決を見出している。

内なる戦いの中にある信仰の戦士は、恵みの御座の御前で、この祈りをささげ、必要なみことばを求める。この祈りは、戦いの最中にある信仰者がささげる祈りの模範とすべきものである。天の御業に従事している働き人は、この祈りをささげることによって、折にかなった恵みを頂き、必要を満たすことが出来る。

神に願い求めている罪人は、数多くの苦難を経験し、驚き怪しんでいる。しかし、その罪人は、この切なる祈りを、神にささげることが出来る。実際、神の愛と平安を求めている魂が、どのような状況にあろうと、いつでも、どこにいようとも、この祈りは役に立つ。

【主】よ お救いください」という祈りは、今を生きている私たちにも、やがて死に行く私たちにも、ふさわしい祈りである。また、苦しみにある時も、骨折って労している時も、ふさわしいものである。喜んでいる時も、悲しんでいる時も、これはふさわしい祈りである。私たちは、主の中に救いを見い出すのである。それゆえ、主に向かって叫び求めることを怠らないようにしようではないか。

イエスを通して、心から、誠実に祈りをささげるなら、主は必ずお答えくださる。主は、御自身の性質上、神の民を見捨てることはない、と私たちに保証しておられる。主は私たちの御父であり、また花婿である。この主との関係は、主と私たちが契約関係に入ったことを表し、私たちを救う契約書に証印を押したことである。また、「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。《ローマ 八・32》」神はこの堅い約束を結ばれたのである。「恐れるな。わたしがあなたを助ける。《イザヤ 四十一・13》」この確かな御約束は、堅く立つのである。

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