12月28日 御子に対する信仰

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。《ガラテヤ人への手紙 二・20》

憐れみに富む主は仰せになる。「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まったあなたに『生きよ』と言い、血に染まったあなたに、繰り返して『生きよ』と言った。《エゼキエル 十六・6》」キリストのいのちによって生きることは、霊的世界において絶対に欠くことのできない本質の一つである。キリストのいのちが与えられない限り、神の御国の祝福や相続に関して、キリストと共に与ることは出来ないのである。

人が新生したなら、聖徒となる。聖徒となった瞬間、神の恵みによって与えられるいのちは、キリストご自身のいのちである。ちょうど、ぶどうの木の幹を樹液が流れ、枝に届くのと同じである。いのちは、ぶどうの木であるキリストから枝である私たちに注がれる。私たちの魂とイエスとの間には、いのちの関係が成立しているのである。私たちは、キリストと一体となったことにより、キリストのいのちの初穂とされた。信仰とは、このいのちの関係によって一つとされていることを、恵みにより理解することである。また、キリストのみからだである教会を、栄光の頭であるキリストに結びつける「首」に当たる。

「信仰よ。それは、主と一つとする。 / これが信仰の務めではないか。 / 福音の型を示す務めの中で、 / 信仰にふさわしい名は、教会の首、 / 意志とその働きにおいて、 / 信仰は教会を、天に昇られた主と同じ姿にする。」

信仰とは、堅い決意をもって主イエスをしっかりと掴むことである。教会は、キリストの威光と真価とを知り、いかなる誘惑に会ったとしても、キリスト以外のものに信頼を置くことなどあり得ない。キリスト・イエスは、教会が戴いているこの天来の恵みをいたく喜んでおられる。それゆえ、主は教会を愛し、御胸の内に抱きしめてくださる。また、永遠の愛の御腕をもって教会を常に強め、支えてくださるのである。ここに、生き生きとした、実感できる、喜びに満ちた一体感が確立される。そこから愛と、信頼と、憐れみと、満ち足りる思いと、喜びの流れが湧き出るようになる。花婿と花嫁は喜びながら、この流れを飲むのである。

魂が、キリストと一つとされていることを明確に認識できる時、キリストのいのちの鼓動が教会の内にも現れる。キリストのみからだである教会に、キリストの血が流れ来るのを感じ取ることが出来る。その時、心は地上にありながら、あたかも天上にあるように感じる。最も崇高な霊的な交わりを楽しむため、教会は整えられるのである。

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