5月29日 主は義を愛し、悪を憎む

あなたは義を愛し 悪を憎む。《詩篇 四十五・7》

怒っても、罪を犯してはなりません。《エペソ 四・26》」しかし、罪を怒らないとすれば、その人の内には善があるとは言えない。真理を愛する人は、一切の偽りを憎むはずである。

私たちの主イエスが荒野で誘惑された時、どれほど罪を憎まれたことだろうか。サタンは、主イエスを三たび、手を変えて品を変えて誘惑した。主は誘惑に会われた時、常に「引き下がれ、サタン」と言われ、誘惑を退けられた。主は、人々の内にある罪を憎まれた。しかし、罪人に対し、叱責のことばを向けることはなさらなかった。罪人に対し、憐れみの涙を流されることにより、御自身が罪を憎んでおられることを示されたのである。

しかし、エリヤがかつて、アハブ王やイスラエルの民に向かって語ったことば以上に、主は偽善者に対して容赦なく、厳しいことばをお語りになった。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしています。《マタイ 二十三・14》」主は、この上なく邪悪を憎んでおられた。悪を憎むあまり、ご自身の血を流し、悪魔に致命傷をお与えになった。ご自身が死なれたことにより、悪魔の業を滅ぼされた。ご自身が墓に葬られたことにより、悪を葬り去られた。そして、主はよみがえられ、永遠にご自身の御足の下に、悪魔と悪魔の業を踏みにじられたのである。

キリストは福音の中におられる。キリストの福音は、あらゆる形をしてやって来る悪に反対し、対立するのである。サタンは光りの御使いの姿で現れ、神の聖なるみことばをまねて語って来る。しかし、イエスは、有名な宮きよめの時のように、邪悪なことに関わる人間と悪とを宮から追い出しながら、語られた。「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。《マルコ 十一・17》」

同じように、悪が主のみからだである教会の中に存在するのを、黙認なさることはない。それゆえ、イエスがご支配しておられる者の心の中には、キリストとベリアルとの激しいせめぎ合いが続くことになる。そして、私たちの贖い主が再び地上に来られる時、「のろわれた者ども。わたしから離れよ」と、雷鳴のとどろきのようにお語りになり、その時に地上に生き残っている者たちをお裁きになる。このみことばは、主が地上におられた時、罪について教えて来られたみことばの、延長線上にあるに過ぎない。そして、主がいかに罪を憎み、忌み嫌っておられるかを、明らかに証明するみことばである。

主は罪人に対し、温かい愛を持っておられる。それ以上に、罪に対しては燃えるような憎しみを持たれるのである。主の義が完全であるように、あらゆる種類の悪を完全に破壊なさるのである。

主よ。あなたは正義に勝利をもたらした、栄光ある勝利者、悪を打ち壊されたお方です。「それゆえ神よ。あなたの神は、喜びの油をあなたに注がれた。あなたに並ぶ、だれにもまして。《詩篇 四十五・7》」

注:「ベリアル」は、ヘブル語で「よこしま」という意味。新約聖書では、「悪魔」と同義のことばとして使われている。

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