3月24日 その恐れのゆえに聞き入れられた

キリストは・・・祈りと願いをささげ、その恐れのゆえに聞き入れられました。《へブル人への手紙 五・7:英語訳》

キリストのこの「祈りと願い」は、ゲツセマネの園でささげられたものである。

その恐れ」は、ご自分が神から全く見捨てられ、御父との麗しい交わりを断たれ、地獄の苦しみを味わうことを思い、生まれたのである。これ以上の試練があるだろうか。神から全く見捨てられ、永遠に御父との交わりから引き離されることは、最悪の試練である。

サタンは主に言った。「ほら、あなたの友はどこにもいない。御父は、あなたに対して憐れみの心を閉ざした。天の神の宮からは、神の御使いは誰一人として遣わされず、手を伸べて助けに来ようとはしない。天は全くあなたから遠ざかり、あなたは孤立無援だ。親しく語り合って来た友を見なさい。友だち甲斐のある者は一人もいない。マリヤから生まれた者よ。ゼベダイの子のヤコブを見なさい。最愛の弟子ヨハネを見なさい。また大胆な使徒ペテロを見なさい。あなたの苦難の時、皆眠りこけてしまった臆病者ではないか。ほら、天においても地においても、友はいない。どこにもいない。地獄の軍勢が、あなたに向かって総攻撃を仕掛けている。私は悪霊どもの部隊を総動員した。全世界に手紙を送り、暗黒の君たちをすべて召集し、今晩あなたを攻撃させる。悪霊どもは一本の矢も残らず射尽くし、地獄の力をすべてあなたに向け、今やあなたを押しつぶす。これに対してどうしようというのか。孤立無援の者よ。」

私たちは、「もしかしたら、これが主への誘惑だったのかも知れない」と考えている。なぜ、そのように考えるのだろうか。「御使いが天から現れて、イエスを力づけ《ルカ 二十二・43》」、恐れを取り去っているからである。主の願いは、「その恐れのゆえに聞き入れられた」のである。主はもはや孤独ではない。天が主と共にあった。

主は誘惑されたので、三度も弟子たちのところに来られたのであろう。讃美歌の歌詞にある通りである。

「前に、後ろに、三度足を運ばれた。 / あたかも人の助けを求めるかのように。」

主は、本当に全ての者がご自身を見捨てたかどうか、ご自分の目で確かめたいと思われたのである。確かに、弟子たちは皆眠っていた。しかし、彼らが眠ったのは裏切るためではない。「悲しみの果てに眠り込ん《ルカ 二十二・45》」だのである。「霊は燃えていても肉は弱い《マタイ 二十六・41》」のである。このことを思い、主はわずかに慰められたであろう。

いずれにせよ、「キリストは・・・祈りと願いをささげ、その恐れのゆえに聞き入れられた」のである。イエスの祈りは、最も深い悩みの中にある時に聞かれた。

わが魂よ。お前の祈りもまた聞かれており、応えられるのである。

3月23日へ  3月25日へ  3月の目次へ  「きょうのみことば」へ

コメント