3月26日 贖い主による守り

イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」《ヨハネの福音書 十八・8》

わが魂よ。次のことに目を向けなさい。ご自身が敵の手に捕えられる試練に直面しながらも、イエスはご自分に委ねられた羊を顧み、守られたのである。

死に臨む時こそ、その人の心に満ちているものが強く現れるものである。

主はご自身を敵の手に委ねられた。しかし、弟子たちを自由に去らせるため、力あるみことばをお語りくださった。主はご自身のためには、「屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように《イザヤ 五十三・7》」口を開かれなかった。しかし、弟子たちのためには、全能の力をもってお語りになる。ここに愛がある。絶えず注がれている愛。無私無欲の愛。真実な愛である。

この人たちは去らせなさい」とは、表面上は「弟子たちを去らせなさい」ということである。しかしここには、それよりも遥かに深い意味がある。このみことばには、まさに贖い主の深い御思いが込められている。「良い牧者は羊のためにいのちを捨て、羊は解放されなければならない」と、主は仰せになる。保証人が身代わりとなり、敵の手に渡されるのだから、敵に拘束されていた者は釈放されなければならない。これが「義」である。

かつて、イスラエルの民がエジプトの奴隷として束縛されていた只中で、主は同じみことばを力強くお語りになった。「わたしの民を去らせなさい。

罪の奴隷、サタンの奴隷から贖い出された者は、罪と死の束縛、サタンの束縛のもとから出て来なければならない。失望という地下牢の一つひとつの部屋に、「わたしの民を去らせなさい」という声がこだまのように響き渡り、「落胆者」と「臆病者」は解放される。サタンは、「わたしの民を去らせなさい」という聞き慣れた御声を耳にすると、踏みつけている戦死者の首から足をどける。「死」が主の御声を聞けば、墓は扉を開け、死者をよみがえらせる。贖い出された者は、一本の道を進む。その道は聖潔に進み、勝利へと続き、遂には栄光に至るのである。彼らの行く手を阻もうとしても、誰も彼らを止めることはできない。その道を歩き回る「ほえたける獅子」も、いかなる猛獣もいない。

暁の雌鹿」が、残酷な狩人の注意を引き、おびき寄せることに成功した。それゆえ、最もか弱い子鹿や雌鹿は、全き平和に包まれて草を食むであろう。それはひとえに、「暁の雌鹿」の愛の業のゆえである。神の御怒りの雷雲が、カルバリの十字架上に垂れ込め、キリストは激しく裁きの落雷に打たれた。それゆえ、神の永遠の都シオンを目指す「巡礼者」が、その落雷に打たれることは、決してない。

さあ、わが心よ。贖い主がお前のために買い取ってくださった、贖い主の解放と守りを喜びなさい。ひもすがら主を賛美し、日ごとに主の御名をほめたたえよ。

注: 「暁の雌鹿」は《詩篇 二十二篇》の表題に出て来る。この二十二篇は「メシア詩篇」と呼ばれる。メシアの受難の様子が預言され、イエスの十字架の際、成就している。スポルジョンはこのことを意識し、メシアのことを「暁の雌鹿」と呼んでいるのであろう。

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