そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。《マルコの福音書 十五・34》
私たちのために十字架に釘づけられ、死なれたイエス・キリストの姿を、じっくり見てみましょう。
イエスさまは十字架に釘づけられる前、鞭で打たれました。それは当時、十字架刑にされる囚人は皆、そうされていたからです。鞭の先には、釘や、ガラスの破片、茶わんやお皿などの破片がついていました。その鞭を振りおろす力強いローマ兵は、ガラスや茶わんなどの破片がついた鞭が、イエスさまの体に巻きつくと、わざと鞭をたぐり寄せました。ですから、鞭の先についている破片はイエスさまの皮膚を裂き、筋肉をえぐり、引き裂きます。
また、イエスさまの頭には茨の冠がかぶせられ、顔にも血が流れていました。十字架の横木をかついだ時、肩や首にも傷ができ、血が流れ出ます。そして、十字架に釘づけにされた手足からも血が流れ、ローマ兵によって、わき腹を槍で刺されて血と水が流れました。イエスさまは、裸で十字架につけられました。十字架の下で、イエスさまの着ていた着物をローマ兵がくじ引きにして、自分のものとしていました。
このイエスさまの姿を見ましょう。このお方が神の御子なのです。このお方が私たちの罪を背負われ、私たちの罪を贖うため、全く罪のないお方であるにもかかわらず、罪人の一人のようになって、十字架につけられたのです。そして、その身を裂かれ、尊い血を最後の一滴まで流されたのです。それは、ただ天の父なる神さまを愛し、私たちを愛するゆえに、そうされたのです。神の御子であるにもかかわらず、まるで毛を刈られる子羊が人前に出された時のように、与えられた十字架をいとわず背負うために、ゴルゴダに連れて行かれたのです。
私たちは皆、罪人です。罪から来る報酬は死です。ですから私たちは皆、永遠に亡びるしかない者です。誰かがこの罪の代価を支払わなければならないのです。しかし、私たちアダムの子孫である罪を持つ人間では、誰も支払うことができません。イエス・キリストだけが、罪の代価を支払うことができたのです。イエスさまが私たちを贖ってくださった今、私たちは永遠に罪の刑罰を受けることはなくなったのです。既にイエス・キリストが私たちの罪を身代りに背負われ、刑罰をお受けになったからです。ただ私たちは、このことを心開いて受け入れさえすれば良いのです。私たちは、イエス・キリストが私たちの咎と罪、死と病を全部背負われ、苦難のすべてをお受けになった事を信じ、告白し、感謝をささげさえすれば、神さまの御前に堂々と立つことができる資格を与えられるのです。二千年前に流されたイエス・キリストの血潮が、今も私たちに注がれているからです。私たちのために、命さえ惜しまずささげてくださったイエス・キリストに、心から感謝をささげましょう。
お祈り:私たちの罪のために十字架で尊い血潮を流してくださったイエスさま、感謝します。イエスさまが苦難をお受けくださいましたから、私たちは救われ、新しく造られた者とされました。このことをいつも考え、思い巡らし、隣人の救いのため、私を主におささげします。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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