聖書の人物(95)三人の弟子 vol.2

主を愛し、主との関係を最優先にする《ルカの福音書 九・28~36》

1.千年王国:メシア的王国でのイエスさまの御姿

イエスさまは三人の弟子を連れて、ヘルモン山に登りました。ペテロと、ヤコブ・ヨハネの兄弟です。このヤコブ・ヨハネの兄弟のことを聖書は、「ゼベダイの子たち」と呼んでいます。この三人は、12弟子集団の中のリーダーの役割を果たしています。

ヘルモン山に上る前、イエスさまは12弟子を連れ、ピリポ・カイザリアに来ました。そして弟子たちに質問します《九・20》。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが12弟子を代表して答えます。「あなはた生ける神の子キリストです。」2つの重要な真理が語られています。一つは、イエスさまは神ヤハウェである。アブラハムと契約を結び、イサク、ヤコブにも現れたヤハウェ、モーセに現れ、ダビデに現れ、預言者たちに現れたヤハウェですということです。もう一つは、イエスさまは、油注がれたメシア、王であるということです。イスラエルの王であるお方、そして世界の救い主であるということです。

ヘルモン山に登ったイエスさまは、3人の弟子たちの前で姿が変わりました。《九・29》「祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。」これは、イエスさまが肉体の衣を脱いだ姿のことです。イエスさまも、私たちと同じように肉体を着ました。この肉体を脱ぐと、イエスさまの本当の姿が現れます。本当の姿とは、神です。内側から輝き出る神の栄光:シャカイナ・グローリーで輝いています。

千年王国:メシア的王国に入る前、イエスさまは地上に再臨します。その時の姿が、これです。また、千年王国:メシア的王国で、イエスさまは全世界を治めますが、その時の姿が、これです。栄光に輝くイエスさま:シャカイナ・グローリーに輝くイエスさまが王となり、世界を治めるのです。

弟子たちの見ている前で、イエスさまのお姿が千年王国:メシア的王国の時のイエスさまの姿に変わったので、弟子たちは千年王国:メシア的王国が来たと思ったのです。それで、ペテロは次のように言ったのです。《33節》「この二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。『先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。』ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。

2.イスラエルの7つの祭りについて

この時のペテロついて、教会では次の3つのことが語られます。(1)気が動転して、興奮して、エキサイトして、何と言ったらいいのか分からなかった。(2)またペテロは、イエスさまを人間のレベルに引き下げている。或いは、モーセとエリヤをイエスさまのレベル、神さまのレベルにまで引き上げている。(3)これは罪である。ペテロは間違っていると、ペテロを責めます。でもこれは、間違っています。

この箇所を理解するため、《レビ記 二十三章》を開きましょう。《レビ記 二十三章》には、イスラエルの民に対して、神さまが毎年行うようにと命令する「7つの祭り」が書かれています。この「7つの祭り」は、実はイエスさまの生涯・働きを時間順に預言しています。

《5節》一番目の祭りは、「過越の祭り」です。イスラエルの民がいけにえの子羊を屠り、門柱と鴨居にその子羊の血を塗り、その後子羊の肉を食べて、エジプトを脱出したことを記念して行う祭りです。過越の祭りは、イエスさまの血が流され、イエスさまが死ぬことを預言しています。

《6節》二番目の祭りは、「種なしパンの祭り」です。イースト菌:パン種の入らないパンを食べる祭りです。パン種とは、罪のことです。つまり、罪のない状態になることを表しています。種なしパンの祭りは、イエスさまの血がささげられることを預言しています。

私たちは皆、イエスさまを信じて救われました。次に私たちは、聖霊さまの力によって、罪の力から解放されるように導かれます。これを聖化:ホーリネスと言います。でも、罪を犯してしまいます。

ヨハネ手の手紙 第一 一・9》「 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

犯してしまった罪を神さまの御前で告白する時、主は赦してくださり、イエスさまの血潮で洗い流してくださいます。最後には、私たちはイエスさまの御前に出ます。その時には、罪そのものから完全に解放されます。これを栄化:グロリフィケイションと言います。

《10~14節》3番目の祭りは、「初穂の祭り」です。大麦の収穫の最初の物を神さまにささげる祭りです。この初穂の祭りは、イエスさまが死者の中から復活することを預言しています。

《15~22節》四番目の祭りは、「五旬節の祭り」です。小麦の収穫を主にささげる祭りです。これは、聖霊さまが降られ、キリストの教会が誕生することを預言しています。そして教会には、イエスさまを救い主として信じる人々が呼び集められます。

ここまでが、春に行われる祭りです。次の祭りの期間は、秋です。秋になるまでの夏の間は、中間期です。中間期は、天の御国の奥義の時代で、教会時代に世界宣教が行われることを表しています。

秋に入り、五番目の祭りが行われます。

《24節》五番目の祭りは、「ラッパの祭り」です。ラッパ:角笛を吹き鳴らす祭りです。

テサロニケ人への手紙 第一 四・16》「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり」と書かれています。「神のラッパ」が響き渡る時、携挙が起こります。この「ラッパの祭り」は、キリストの教会の携挙を預言しています。

《25~32節》六番目の祭りは、ユダヤ暦の7月10日に行われる「贖罪の日」です。この日、イスラエル人の罪が神によって裁かれ、きよめられます。この贖罪の日は、大患難時代を預言しています。

《34~43節》七番目の祭りは、「仮庵の祭り」です。これは、イスラエル人がエジプトを脱出した後、荒野でテント生活をしたことを記念して行われます。この祭りは、イスラエル人がエルサレムに来て、エルサレムで掘っ立て小屋を作って、仮庵を作って、祝う祭りです。メシア的王国・神の御国・千年王国の時、全世界の人々がエルサレムにやって来て、仮庵の祭りを祝います。ですから、この仮庵の祭りは、メシア的王国・神の御国・千年王国を預言しています。

ユダヤ教では、仮庵の祭りとメシアの来臨を強調しています。過越の祭りはもちろん祝いますが、メシアと関連付けることはありません。因みに、ユダヤ教では、メシアは、人であるが神ではないと教えています。人間が考え出した宗教です。12弟子たちもこの教えに影響されていましたし、今日もユダヤ教は、メシアは神ではないと教えています。

3.主を愛し、主との関係を最優先にする

(1)無知から来る熱心さの怖さ

今見て来たように、七つの祭りの通りにイエスさまによる御業が起こります。最初に、過越の祭りの日に、イエスさまは十字架で死に、血潮を流しました。そして、その血を天の父なる神さまの御前にささげます。イエスさまは死から復活し、その血を天の父なる神さまの御前にささげました。その後、聖霊さまが天から送られ、教会が誕生し、教会は全世界に福音を伝えています。その後、教会は携挙されます。次に7年の大患難時代が来ます。大患難時代が終わると、イエスさまが地上に再臨し、千年王国:メシア的王国がこの地上に建てられます。愛する皆さん、この預言の通りに進んでいます。

ペテロは、メシアの働きはこの7つの祭りの通りに成就するということを知りませんでした。ペテロは、イエスさまのお姿がシャカイナ・グローリー、神の栄光で輝くのを見て、今この場で、千年王国:メシア的王国が実現すると思ったのです。そして、仮庵の祭りを祝いましょうという意味を込めて、モーセとエリヤとイエスさまのために仮庵を建てますと言ったのです。

ユダヤ人は聖書を知っているということを、私たち異邦人は知りません。ペテロは聖書を知っているのです。中途半端に知っているのですが。それでペテロは、仮庵を建てますと言ったのです。でも、日本語でも英語でも、「幕屋」と訳しています。つまり移動式の神殿です。ここは本来「仮庵」と訳すべきなのです。

このみことばから、カトリックは大きな罪を犯しました。後になって、タボル山に三つの神殿を建てました。モーセとエリヤの神殿を建てています。聖書を良く知らないからです。

(2)主を愛し、主との関係を最優先にする

愛する皆さん、みことばを知らないで、熱心に信じようとすると、却って不信仰になります。

箴言 十九・2~3》「たましいに知識がないことは良くない。急ぎ足の者は罪に陥る。人の愚かさは自らの道を滅ぼす。その心は【主】に向かって激しく怒る。

私たちは、みことばを学ぶ必要があります。みことばを学んで、どこを目指すべきか。ゴールはどこなのでしょうか。

イエス・キリストです。みことばによって、もっと深くイエスさまを知ることです。みことばを信じ、受け入れる時、自分の罪深さを知ります。鏡で自分の顔を見るように、みことばを受け入れると、自分の内側が見えるようになります。罪深い者であることが分かります。そして、イエスさまの十字架の意味が分かるようになります。イエスさまに救ってもらう必要があることが分かります。天の義なる神さまと和解するためには、どうしてもイエスさまが必要であることが分かります。救われた後も、天の父なる神さまとの関係をただしく保つためには、どうしてもイエスさまが必要であることが分かります。イエスさまの血潮が必要であることが分かります。

愛する皆さん、人は「2つの関係」の中で生きています。一つが「人との関係」です。もう一つが「物との関係」です。たとい「人」であっても、自分にとって利用価値のない人、自分に賛同しない人、自分の敵となる時、その人は「物」に変わります。自分にとって大切な「人」ではないと、「物」に変わります。「物」ですから、平気で壊すことが出来ます。更に恐ろしいことは、人は「天の真の神さま」も「物」にしてしまいます。イエスさまも「物」にしてしまいます。そして偶像という「物」を作るのです。

マタイの福音書 十六・26》「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。

愛する皆さん、ただおひとりの神さまの御前で、人は自分の命を贖う必要があります。自分の犯して来た全ての罪を償うために、神さまは最後、あなたに請求書を渡します。支払い切れないほどの金額ですから、「支払い切れません」としか言えません。神さまは仰います。「あなたの命を代価として払いなさい。」

でも、イエスさまを知っている人は言います。「私の身代わりに、イエスさまが尊い血潮を流し、支払ってくださいました。私はそのことを信じています。」神さまは仰います。「あなたは義です。あなたは正しい。」

イエスさまを信じていない人に対しては、神さまは「自分の命を代価として払いなさい」とおっしゃるのです。その人は、永遠の滅びの中に投げ込まれることになります。

愛する皆さん、贖い主イエスさまはあなたにとって、最も必要なお方なのです。イエスさまとの関係を、最優先に考えなければならないのです。でも殆どの人が、後回し、後回しにしています。もう一度言います。贖い主イエスさまはあなたにとって、最も必要なお方なのです。イエスさまとの関係を、最優先に考えなければならないのです。私の魂を贖ってくださった贖い主なのです。

今自分に聞いてみてください。「今この場で、私が死んだなら、大胆に主イエスさまの御前に出られるだろうか。」

心の内にある「罪」を取り除いて頂きましょう。日々、罪を赦して頂き、罪の汚れを洗って頂きましょう。そしてみことばに従いましょう。罪の力から解放して頂きましょう。

「罪」を軽視してはなりません。日本刀に、一滴の雨水がついてしまいました。すぐにふき取れば、何も問題ではありません。けれども拭き取らずに何日もそのままにしておくならば、日本刀は鞘の中で錆びついてしまいます。

罪についても同じです。心の思いの中で犯す罪も、行動で犯す罪も、罪を犯してしまったなら、直ぐにイエスさまに告白し、イエスさまの血潮で洗って頂くなら、良心は聖く保たれます。けれども、そのままにしておくなら、その罪は知らない間に、あなたの性格の一部となってしまう程に、罪に支配されるようになります。次のような格言があります。「悪い習慣は、最初は訪問者であり、次には客であり、最後には主人となってしまう。」良心が麻痺してしまうのです。良心が働かなくなるのです。

テモテへの手紙 第一 一・5、18~19》「この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。    私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。」

レベルは高いですが、聖霊さまに委ねて、このレベルを目指して進もうではありませんか。

祈り:愛と恵みに満ちておられる、私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝します。天のお父さま、御前にへりくだらせてください。信仰を引き上げてくださる、主からの訓練を感謝致します。聖書を更に深く知り、聖書のみことばを行うことが出来ますように。愛するイエスさまに会う準備を始めることが出来ますように。今、この場でも、栄光の主の御前に立てるほどに、準備が出来ますように。イエスさまの栄光を表す者とならせてください。聖霊さま、ご支配してくださいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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