聖書の人物(94)三人の弟子 vol.1

イエスさまの変貌を目撃した弟子《ルカの福音書 九・28~36》

1.ヘルモン山に登るイエスさまと三人の弟子

イエスさまの一行は、ピリポ・カイザリアに滞在しています。ここは異邦人の町です。イエスさまは弟子たちを訓練するため、弟子たちとだけ、ゆっくり過ごせる異邦人の町に来られました。弟子訓練の山場に来ています。

今回の弟子訓練の狙いは、「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白を引き出すためです。この信仰告白には、2つの重要な点があります。一つは、「生ける神の子」です。イエスさまはヤハウェなる神ですということです。もう一つは、「キリストです」で、イエスさまは油注がれた人で、ユダヤ人の王ですということです。つまり、イエスさまは完全な神であり、完全な人として来られた救い主という意味です。

イエスさまは、この告白の上に「わたしの教会を建てる」との宣言なさいました。教会を建てるためには、イエスさまが十字架で血を流し、死に、復活することが条件となります。イエスさまは弟子たちに、十字架の死と復活をお語りになります。が、誰も理解できません。ペテロはイエスさまを脇にお連れして、イエスさまを叱りました。このペテロの失敗を通して、イエスさまは更に弟子たちに教えます。イエスさまの弟子になるためには、「自分の十字架を負い、わたしに従いなさい」と教えられます。つまり、イエスさまの十字架の苦難と同一化し、イエスさまの苦難に与る者となりなさい。イエスさまは、天のお父さまのご計画を成し遂げるため、ご自身をささげました。そのイエスさまを、この世は見捨てました。弟子たちも、主のご計画を成し遂げるため、自らをささげる時、この世から苦しみを受けるということです。このように、世界観が変化することです。この世中心の世界観から、神の御国がこの地上に成就する世界観、価値観に変えられることです。そして自分を捨てなさいということです。自分を信頼することから、イエスさまを信頼する者へと変えられることです。

その後、イエスさまは三人の弟子を連れ、ヘルモン山に登ります。三人の弟子とは、ペテロと、ヤコブ・ヨハネの実の兄弟です。この三人は、弟子集団の中のリーダーとなります。ヤイロの娘をイエスさまが生き返らせるときも、この三人を一緒に連れて行きます。またこの一年後、ゲツセマネの園で祈る時も、この三人を近くにおいて、イエスさまは祈ります。

イエスさまは、この三人の「日々の信仰生活」が劇的に変化することを狙って、ヘルモン山に連れて行かれます。そのため、この三人にイエスさまの栄光の姿を見せる必要があります。そしてこの三人は、イエスさまの栄光の姿を目撃します。「あなたは生ける神の子キリストです」とペテロは弟子たちを代表して告白しましたが、その告白が実際に、どのようなことかをお見せになるためです。

使徒ヨハネの証言です。《ヨハネの福音書 一・14》「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

使徒ペテロの証言です。《ペテロの手紙 第二 一・16~18》「私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。

この出来事によって三人の弟子は、イエスさまに対して聖なる恐れ、畏怖の念を抱きます。イエスさまの内に輝いてる神の栄光、シャカイナ・グローリーを体験したのです。

イエスさまに対して聖なる恐れ、畏怖の念を抱くためには、イエスさまの十字架の苦難と、死と復活を深く知ることが大事です。そして更には、イエスさまは栄光の神ご自身であることを深く知ることが求められます。イエスさまを正しく知ることが必要です。そのため、ペテロとヤコブとヨハネに、イエスさまが栄光の神ご自身であること、そして油注がれた王であることを見せたのです。

シャカイナ・グローリーに触れると、ことば数が減ります。栄光の主に黙々と従うようになります。

初代の大祭司に任じられたアロンがそうです。彼はモーセと違い、ペチャクチャペチャクチャしゃべる人でした。言葉の人です。モーセに従い、エジプトを脱出する際に、リーダーに任じられ、数々の奇跡が自分を通して起こるという栄光に与ります。そしてエジプトを脱出します。脱出した直後、民にそそのかされて、アロンは金の子牛を造ります。偶像礼拝の罪を民に犯させます。モーセの祈りによって罪赦され、一年後、神の幕屋が出来上がった時、アロンは大祭司に任じられます。幕屋の至聖所と呼ばれる所に入れるのは、大祭司だけです。アロンは至聖所に入って、いけにえの血潮を、恵みの御座に注ぐ務めをするように命じられます。神の幕屋には、窓がありません。真っ暗です。先ず最初に入るのは聖所ですが、そこには金の燭台に炎が点いているので、光があります。奥の至聖所は真っ暗のはずですが、中に入ると、シャカイナ・グローリー、神の栄光の輝きで光が満ちています。神が臨在なさっている証です。アロンは神の栄光に触れます。この後、アロンのことば数がめっきり減り、モーセと、神とに従う者に帰られます。

イエスさまの栄光の姿に触れることは、人間を劇的に変化させます。私たち一人ひとりが、栄光のイエスさまに触れて頂ける体験を持つことが出来ますように。アーメン。

2.イエスさまの変貌

イエスさまは祈るため、ヘルモン山に登られます。イエスさまはいつも重大な事の前には、祈りの備えの時をお持ちになっています。

祈っている時、イエスさまは肉体という幕屋を脱ぎ、主の真のお姿が内側から輝き出ます。シャカイナ・グローリー、栄光に輝くヤハウェのお姿です。そしてモーセとエリヤが現れ、イエスさまと語り合う様子を、三人の弟子は目撃します。イエスさまが、モーセとエリヤに「エルサレムで遂げようとしておられる最期《31節》」についてお語りになっていたのです。この「最期」とは「エクソドス:出エジプト」という単語が使われています。エルサレムで受ける十字架の苦しみによって、解放されるということです。この十字架による解放には、二つの意味があります。一つは、イエスさまが私たちと同じ肉体を持っていることから解放されることです。十字架は、「人間性」という制約から解放される出来事です。もう一つは、十字架によって人類が罪と死から解放されるのです。私たちもイエスさまと同じように、罪と死を持つこの肉体から、完全に解き放たれ、自由にされるということです。罪と死を持つこの肉体の中にいる間は、完全には解放されません。罪と肉と、戦い続けなければなりません。しかしイエスさまは、やがて私たちをも、この苦しみから完全に解き放ってくださるのです。

ローマ 七・23~24八・23~25》「私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」  「それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。

その時、霊、魂、肉体は、完全に罪と死から解放されます。イエスさまと同じ姿に変えられます。

今この地上にいる間は、罪の力から解放される「聖化」の時です。「聖め」とは「分離」という意味です。「きれい」、「きたない」という意味ではありません。もちろんこの世の悪と罪は「きたない」という面はありますが、聖書の「聖め」とは、この世から分離することです。罪の汚れから分離することです。罪の力から解放されて行くことです。この世と分離出来ていない領域について、聖霊さまは訓練してくださって、分離出来るようにしてくださいます。この世を愛していたり、この世の考え方で生活していたりする領域を、聖霊さまは教えてくださいます。それを手放す時、聖霊さまのご支配を頂きます。そのことを、聖霊に満たされると言います。この世を愛していたり、肉を愛していたりするなら、その人は聖霊さまから訓練を頂いているはずです。この世の考え方で生きていたり、肉に従って生きていたりしたら、訓練を受けているはずです。それを手放す時、聖霊さまの満たしを頂けます。

愛する皆さん、この世から分離していますか。

3.モーセとエリヤの登場

モーセとエリヤが現れたことは、三つのことを教えています。

第一は、二人は今も生きているので、信者の死後のいのちが保証されていることです。

第二は、イエスさまは、律法と預言者を成就するメシアであるということです。モーセが旧約聖書の律法の書を表し、エリヤが預言者の書を表しています。つまり旧約聖書全体のことです。旧約聖書は、イエスさまの十字架の死と復活、そして天に帰られ、再び戻って来られることを証言しているということです。

これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」と父なる神のことばが語られました。使徒たちは、イエスさまのことばを書き残しました。それが新約聖書です。聖書全体は、イエスさまを証言している書です。

ヨハネの福音書 五・39~40》「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

栄光の輝くイエスさまがいらして、モーセとエリヤが現れ、三人の使徒たちもそこに同席していました。第三に、この光景は、神の御国に入る3種類の人を表しています。神の御国:千年王国に入ることが出来るのは、3種類の人たちです。

モーセは、旧約時代に救われた信者と、大患難時代に救われた信者を表しています。エリヤは、携挙される教会時代の全ての信者を表しています。イエスさまのからだである教会に組み込まれた信者は、生きている信者も、死んだ信者も、携挙の時よみがえり、栄光の霊と栄光の魂が、栄光の肉体をまとうのです。私たちは一瞬にして、イエスさまと同じ姿に変えられます。そして七年間、天においてイエスさまとの結婚式を行うのです。地上では、七年間の大患難時代を過ごしています。その大患難時代を生き延びて、肉体を持ったまま千年王国に入る人たちがいます。千年の間、肉体を持ったまま、王なるイエスさまに仕える信者たちです。三人の使徒たちは、その大患難時代を生き延びる信者を表しています。教会時代の信者、つまり私たちは、その人たちに仕えるのです。イエスさまが弟子たちに仕えたように、私たち教会時代に救われた信者は、その人たちに仕えます。

愛する皆さん。もうしばらく忍耐の時は続きます。この忍耐の時を、励まし合い、慰め合い、助け合い、赦し合い、愛し合い、過ごしましょう。

この世界は、イエスさまの再臨の時、新しい世界に造り変えられます。それが千年王国の時です。その新しい世界に入ることが許されるのは、信者だけです。ですから、救いとは、新しい世界に入るため、一人ひとりが新生することです。

マタイの福音書 十九・28》「そこでイエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。』

この世界は新しくされ、イエスさまが王となられます。その新しい世界で、イエスさまの使徒たちには十二の座が用意されます。その時、肉体を持ったまま千年王国を生きているイスラエルの十二部族が、地上にいます。12使徒たちは、彼らに仕えるようになります。私たち教会時代に救われ、携挙された信者は、その時、肉体を持ったまま信者となっている異邦人信者たちが住む町々に遣わされて、そこで彼らに仕えるようになります。ですから、仕える訓練を受ける必要があります。その訓練を受けていますか。

その希望に目を向けつつ、この世の苦難の時を、共に励まし合い、慰め合い、助け合い、赦し合い、愛し合い、過ごして参りましょう。

祈り:愛と恵みに満ちておられる、私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝します。天のお父さま、御前にへりくだらせてください。信仰を引き上げてくださる、主からの訓練を感謝致します。愛する主よ。イエスさまの栄光の姿に触れさせてください。シャカイナ・グローリー、を体験させてください。そしてこの世から分離できますように。また、主と共に仕える訓練を今、この地上で受けることが出来ますように。イエスさまの栄光を表す者とさせてください。聖霊さま、ご支配してくださいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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