聖書の人物(90)弟子訓練を受ける12使徒 vol.3

形にこだわるのか、本質を見極めるのか《マタイの福音書 十五・1~14》

1.清めの洗い

イエスさまの弟子訓練の4番目は、ベツサイダの地で起きたことです。

《十四・34~36》34 それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。35 その地の人々はイエスだと気がついて、周辺の地域にくまなく知らせた。そこで人々は病人をみなイエスのもとに連れて来て、36 せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。

イエスさまにいやして欲しいと願って来た人々が、大勢やって来ます。《36節》彼らはイエスさまの「衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった」のです。ユダヤ人男性は皆、衣に房を付けています。これは「モーセの律法」で命じられているものです。この衣の房は、「書かれたみことば:聖書」を象徴しています。

このことからイエスさまは、弟子たちに次のことを教えています。「書かれたみことば:聖書」を信仰の土台としなさい。信仰によって、「書かれた神のみことば」の権威を受け入れ、神のみことばを基準として歩みなさいと言うことです。

《コリント人への手紙 第一 四・6》 兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。

イエスさまの弟子訓練の第五は、本質を見極めるというものです。

イエスさまを「メシアではない」と正式に、公式に発表した後も、パリサイ人、律法学者がエルサレムから来て論争を仕掛けて来ます。民衆の中では、イエスさまの人気が依然として衰えていません。パリサイ人、律法学者はイエスさまに、「本当にメシアである証拠を示しなさい」と、大変思い上がった議論を吹っ掛けて来ます。

ここでは《2節》、「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません」と、イエスさまに聞いています。

食事の前には「手を洗いなさい」と母親から言われ、また学校の先生から言われて、育って来ました。なぜでしょうか。汚れた手のままで食事を摂ると、手に着いた「ばい菌も」一緒に体の中に取り込むことになり、最悪のケースは病気になるからです。

ユダヤ人たちは、パリサイ人・律法学者から言われて、育っていました。なぜでしょうか。「言い伝え」だからです。古くからの言い伝えで、ユダヤ人は食事の前に手を洗って食べなければ、「言い伝え」を破ることになり、呪いを招くからだと言われていたからです。この食事の前に手を洗うことを「清めの洗い」と言います。衛生的な理由からではなく、儀式的理由から行っていました。指先から肘まで洗います。市場から帰って来た時には、全身を洗い、きよめます。

この教えは、モーセの律法には書かれていません。ですから、イエスさまは無視なさいました。イエスさまは「清めの洗い」の儀式をなさいません。弟子たちはそのイエスさまの様子を見て、「清めの洗い」をせずに食事を摂りました。その様子を見て、パリサイ人・律法学者は非難しました。

イエスはお答えになっています。《3節》「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。」質問されたので、質問で答えています。これが、ユダヤ人のラビ:教師が行う教え方です。物事の本質を見ることが出来る目を養う教え方です。イエスさまは、あなた方パリサイ人・律法学者たちも、「自分たちの言い伝えのために神の戒めを破」っているのですかと、疑問を投げかけています。

その代表的な例が「コルバン規定」です。パリサイ派の教えでは、自分の財産に向かい「これはコルバンになった」と宣言するならば、その財産は人に譲ることが出来ないと教えていました。神にささげるか、自分のために使うかのどちらかです。コルバンと宣言したお金や物は、人に譲ることが出来なくなるのです。たとえ両親であっても、譲れなくなるのです。この口伝律法は、明らかに「父と母を敬え」という十戒の戒めに逆らう教えです。神の戒めに背いている、自己中心・人間中心の教えです。

イエスさまは弟子たちに、口伝律法、パリサイ派の教えについて注意しなさいと教えています。《13~14節》

13 イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」

口伝律法は、「わたしの天の父が植えなかった木」ですと、弟子たちに教えています。そして「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です」とも教えています。

2.神の律法と、人間の律法主義

パリサイ人・律法学者は「先祖たちの言い伝え」の守ることにこだわっていました。「先祖たちの言い伝え」とは、「口伝律法」のことです。「モーセの律法」ではありません。

神が、モーセを通してお与えになったのが「律法」です。時には「モーセ」とも呼ばれています。一般的には「モーセの律法」と呼ばれています。律法とは、どのようなものでしょうか。

《ローマ人への手紙 七・12》 ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。

これが「モーセの律法」です。

「口伝律法」、どのようなものでしょうか。「モーセの律法」に違反しないため、人間が考え出した「人間の教え」です。「モーセの律法」の周りに築いた「垣根」のようなものです。パリサイ人・律法学者は、神がモーセにお与えになったと主張しています。彼らは、「口伝律法」を守り、行うことに、異様なほど執着していました。「口伝律法」を守らない人を激しく責め立てます。

例えれば、次のようなことです。高校生の時、「服装、身だしなみは、高校生らしく、清潔に」という校則が、どの学校にもあります。本来は、生徒を指導するためです。心の乱れが、服装などに現れるから、注意するということです。服装や身だしなみが乱れ始めたら、「何かあったの?」と先生は生徒に聞き、生徒指導を行う、これが本来の目的です。が、きまりを守ることに重点を置くと、その考えはどこかに吹き飛びます。「お前はこの学校の風紀を乱す者」と激しく責め立てます。これが「律法主義」と呼ばれるものです。形ばかりを重視します。そのため、愛と憐れみが疎かにされるのです。

イエスさまは、繰り返し繰り返し、形にこだわってはならない、隣人への愛と憐れみこそ、天の父が大事になさっていることであると教えています。ですから、イエスさまご自身はモーセの律法を一度も破ったことがありませんが、「口伝律法」は意図的に破ったり、背いたりしています。人間の教えに過ぎないからです。

3.形にこだわるのか、本質を見極めるのか

イエスさまが弟子たちにお与えになった、五番目の訓練には、どのような教訓があるのでしょうか。

第一に、神から出ているのか、人から出ているのかということです。

形ばかりを整えようとすることが、律法主義です。外面を整えることに関心があるのです。心の中は見過ごしにされます。

或るプロテスタン教会で、私の友人が結婚式を挙げました。結婚式の始まる前、牧師は色々な用具や道具を入念に整えていました。より入念に準備すべきことは、参列する人が、イエスさまの福音を受け入れるために祈ること、みことばを入念に用意することです。

人は外面的美しさ、豪華さに引かれていく性質を持っています。神から出ていないものは空しいということを、常に覚える必要があります。愛する皆さん、神に敵対する人物や思想は、必ず永遠の刑罰に入ります。

しかし、キリストの福音は単純です。神の恵みにより、キリストを信頼すること、信仰によって救われます。人は皆、神によって創造された者です。が皆、神から離れて、神から独立して生活しています。そのことを罪と言います。私たちを造ってくださった神のみもとに帰り、神を信頼して生活することを、救われると言います。神のみもとに帰り、神を信頼して生活するためには、一つの方法しかありません。イエス・キリストが十字架で、私の罪のために死んでくくださったことを信じること、墓に葬られたことを信じること、そして、三日目に墓を打ち破って、死人の中からよみがえったことを信じることです。イエスさまは、完全な人であり、完全に神であることを信じることです。

私たちは、神から出ているものだけを追い求めましょう。

第二に、清めの洗いと、きよめの本質についてです。

パリサイ人・律法学者たちは、「清めの洗い」を儀式的にするように教えていました。イエスさまの答えは、《十五・11》です。

11 口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。

ペテロを代表とする弟子たちの心の目は、閉じたままです。イエスさまのたとえ話の意味が分かりません。

《マタイの福音書 十五・15~20》15 そこでペテロがイエスに答えた。「私たちに、そのたとえを説明してください。」16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。20 これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

口に入るものではなく、口から出るものが人を汚すのですと、イエスさまは仰っています。

人間の教えは、「人の汚れは、外からの悪影響の結果」と考えます。心の中を掃き清めれば、心はきれいになる。心の中を掃き清めるためには、手を洗いなさい、全身を洗いなさいと教えます。日本人に分かりやすい表現で言うならば、神社やお寺の庭を掃き清めて、修行をしなさい。滝に打たれなさい。真冬に川や海に入って、泳ぎなさいなどということです。

けれども、イエスさまはそのようには教えていません。「人間の罪や汚れの原因は心の中にある」と、指摘なさっています。人間の心の中が問題なのです。行いではありません。人間の心の中をきれいにするためには、石鹸で洗うことも、漂白剤で汚れを落とすことも出来ません。人間には出来ないのです。誰なら出来るのでしょうか。私たちを創造してくださった、天地創造の神です。そして、その神が人となってくださって、私たちの前に現れてくださったイエス・キリストだけです。今、イエスさまは天の神の座で、私たちのために祈っていてくださいます。イエスさまの代わりに私たちの所に遣わされた、聖霊なる神さまが、私たちの心をきれいにすることがお出来になります。聖霊さまが、救ってくださいます。聖霊さまが、日々、私たちを救い続けてくださいます。

《テトスへの手紙 三・5~8》5 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。6 神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。7 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。8 このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。

聖霊さまによって救われ、日々救われているので、心の内側が変えられるのです。イエスさまの姿に似る者となるのです。ですから、イエスさまのように考えることが出来るのです。イエスさまのように、愛と憐れみを行えるようになるのです。

柿の実を食べて、種を蒔きます。芽が出て、約十年後には、実が成ります。けれども、全部渋柿です。今は品種改良されて、甘い実を成らす者もあるようですが、本来は渋柿しかならないのです。甘い実を成らすためには、木を幹ごと切り、他の木に接ぎ木するのです。そうすると、枝先になる実は全部甘くなります。

私たちの心には元々、《マタイ 十五・19》「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしり」があるのです。親に教えられなくても、「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしり」を持っています。柿の木と同じように、私たちが切り倒され、新しい木に接ぎ木される必要があります。新しい木とは、イエス・キリストです。十字架です。ここに接ぎ木されると、甘い実を結ぶようになります。「良い業」を行うことが出来るようになります。絶えず、十字架のイエスさまを思い巡らすことです。みことばに従うことです。

第三に、霊的に成長するには、聖霊さまの導きに素直になることです。聖霊さまと調和し、聖霊さまと同行して生きることです。聖霊さまは紳士なお方です。決して私たちに強制なさるようなことはなさらないお方です。私たちがお願いするなら、私たちの思いを越えて豊かに働きかけてくださり、私たちの思いを越えた祝福に満たしてくださいます。

《ガラテヤ人への手紙 五・16~26》16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。17 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。18 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。25 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。

祈り:愛と恵みに満ちておられる、私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝します。天のお父さま、御前にへりくだらせてください。信仰を引き上げてくださる、主からの訓練を感謝致します。もっともっと主を信頼する者とならせてください。私の心の内側を聖霊さま、きよめてください。十字架を絶えず見上げさせてください。みことばに従う方を選び取ります。聖霊さま、私を導いてください。私を満たしてください。私に強く臨んでくださり、助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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