『パレスチナ神話』

中東紛争の源流とは何かを知る《詩篇 百二十二・1~9》11月12日メッセージ

はじめに

きょう注目したいのは、「パレスチナ神話」というテーマです。「中東紛争の源流とは何か」を知るためです。

今、インターネット上では、次のような発言が飛び交っています。「確かにハマスは悪い。しかし、歴史的経緯を考えると、イスラエルにも責任がある。」ここで言われている「歴史的経緯」とは、次のことです。「イスラエルは、パレスチナ人たちを追い出して国を造った」ということです。この主張を「パレスチナ神話」と呼びます。これは全く事実とは異なります。事実無根の神話です。欧米では、中東の一連の歴史を正しく認識している人が相当数います。しかし日本では、少数のプロテスタント教会の牧師やアラブ研究家を除き、このパレスチナ神話を信じている人が、メディア関係者を含み、全員と言っても過言ではありません。

そこできょうは、中東紛争の歴史の源流をたどり、中東問題の勘所をつかみたいと思います。次の4つのポイントで話を進めます。「1.約束の地からパレスチナという名称への変更」、「2.アリヤー運動(イスラエル人の帰還運動)」、「3.パレスチナ神話」、「4.反ユダヤ主義との戦い」。巻末資料として、「(資料1)イスラエル独立以前の土地の所有に関するデータ」、「(資料2)イスラエルの地の支配者たちの変遷」を載せます。参考にしてください。

1.「約束の地」からパレスチナという名称への変更

今、パレスチナと呼ばれている土地は本来、主なる神がアブラハムに与えると約束した土地です。聖書には次のように記録されています。「主なる神は、アブラハム、イサク、ヤコブと、その子孫にカナンの地(パレスチナの地)を与えると約束した。《創世記 十二章、十五章》」この地は、もともとユダヤ人に与えられたものです。ユダヤ人たちは、「約束の地」とか「ユダヤ人の地」と呼んで来ました。が、なぜ今、パレスチナと呼ばれるようになったのでしょうか。

紀元70年、ローマ軍によりエルサレムの神殿と町が滅ぼされ、ユダヤ人たちの大半が世界に離散しました。イエスさまを信じなかった不信仰の民に下った、神の裁きです。その後ユダヤ人たちは、ローマに対して数回にわたり反乱を起こしました。そのため、135年、当時のローマ皇帝ハドリアヌスが、土地の名称を変更しました。それまで「ユダヤ」と呼ばれていた行政区でしたが、「パレスチナ」という名称に変更しました。「ペリシテ人」という意味です。ペリシテ民族は、BC8世紀に滅んでいます。ハドリアヌスは、その滅んだ民族の名前をユダヤ人の地に冠し、「シリア・パレスチナ」という行政上の名前に変更しました。ユダヤ人たちの祖国愛を減じる目的です。また、ユダヤ人たちを侮辱するためです。これが今の「パレスチナ」とか「パレスチナ人」と呼ばれる起源になっています。今の「パレスチナ人」は、ペリシテ人の子孫ではありません。

 この「パレスチナ」という名称について、次の3点を確認しておく必要があります。第一に、パレスチナの地に国家として存在したのは、イスラエル王国、並びに今のイスラエル共和国だけです。第二に、パレスチナという国家が存在したことは一度もありません。第三に、パレスチナ人という民族が存在したことも、一度もありません。パレスチナ・アラブ人たちは、民族的にはどの民族に属するのでしょうか。彼らはアラブ人です。聖書的には、アブラハムの息子のイシュマエルの子孫です。1964年にPLO:パレスチナ解放機構が設立され、ヤセル・アラファトが議長となって、対イスラエル闘争を指導しました。この闘争の過程で、アラブ人たちは自分たちのことを「パレスチナ人」と呼ぶようになりました。20世紀初頭においては、パレスチナに住むユダヤ人たちが、パレスチナ人と呼ばれていました。ですから、今のアラブ人たちをパレスチナ人と呼ぶようになったのは、ごくごく最近の現象です。

2.アリヤー運動(イスラエル人の帰還運動)

「今のパレスチナ紛争の原因は、1948年の独立戦争にある」と話を進める人が、殆ど全員です。或いは、「19世紀半ばから活発になったアリヤー運動:イスラエル人の帰還運動が発端となっている」と話を展開する人もいます。パレスチナ・アラブ人たちも、土地の支配に関する一連の歴史を知らないので、「自分たちの土地に、ユダヤ人たちがやって来た」という神話を展開します。

第1次アリヤー運動、ヨーロッパからのユダヤ人たちの帰還が始まったのは、1882年のことです。初期の帰還者たち、19世紀末から20世紀初頭にイスラエルに帰還したユダヤ人たちは、次のようにして土地を所有しました。当時パレスチナを支配していたのは、オスマントルコ帝国でした。パレスチナの地の地主は、エジプトのカイロ、シリアのダマスカス、レバノンのベイルートなどに居住し、イスラエルの地には住んでいませんでした。ユダヤ人たちは、彼ら不在地主たちから土地を買い戻しました。これが歴史的事実です。『パレスチナの土地制度(A・グラノット著)』には、次のように書かれています。「1880年から1948年までの土地購入を調べてみると、ユダヤ人の土地の73%は、不在地主たちから購入したものである。」しかもユダヤ人たちは、荒れ果てた土地、つまり湿地や岩地を、法外な値段を支払って購入したのです。

3.パレスチナ神話

(1)土地についての神話

一般的に、「ユダヤ人はアラブ人の貧農から土地を買い叩いた」とか、「ユダヤ人はアラブ人を追い出して入植地を建設した」とか言われていますが、これは全く事実ではありません。先ほど触れましたが、ユダヤ人たちは、合法的に土地を入手し、この地に住みつき、土地を開墾して行きました。公正な手続きを踏んで、合法的に土地を得、荒れ果てた土地を開墾して行ったのです。驚くほど公正に行われました(資料1参照)。今、イスラエルを訪問すると、ガリラヤ湖畔などは水を豊かに湛え、木々も生い茂っています。聖地旅行に行った人は、「やはり『聖地』は違うな!」と異口同音に言います。けれども、ユダヤ人が土地を購入し、入植した当時は、そこは木一本生えていない荒地でした。その様な荒地を、ユダヤ人たちは、不在地主たちに法外な値を支払い、買い戻し、所有し、入植して行ったのです。そして彼らは植林しました。主の祝福を頂きつつ、今のように美しい自然界が回復されて来たのです。

ですから、「イエスエルの土地は、元はアラブ人の所有地であった」という主張は、うそです。「パレスチナ神話」と呼ばれる、事実無根の主張です。

ここで重要なことを確認しておきます。バビロン捕囚以降、どの時代でも、ユダヤ人がパレスチナの地、イスラエルの地から完全にいなくなった時は一度もありません。いつもユダヤ人たちが住んでいました。また少数ではあっても、パレスチナに帰還するユダヤ人たちが途絶えることもありませんでした。パレスチナへの帰還が活発になったのは、19世紀後半以降のことです。

アブラハムに与えられた約束により、イスラエル人がパレスチナの地の所有者です。そこにアラブ人たちが、このパレスチナの地を自らのものにしようと画策しているのが、実際の構図です。アラブ人たちこそが、イスラエルに与えられている地を侵略している侵略者なのです。また、この地を占領して来た覇権国は全て、イスラエルに与えた地を侵略している者だと言えるのです(資料2参照)。

(2)「パレスチナ難民」についての神話

もう一つ、「パレスチナ難民」についての神話があります。「シオニズム運動が、パレスチナ難民を作り出した」という主張です。これも全く事実ではありません。

現在「パレスチナ人」と呼ばれているアラブ人が急増したのは、いつ頃の事でしょうか。大規模なユダヤ人の入植後です。ユダヤ人たちは、多くの労働力を必要とするようになりました。働きの場を求めて、周辺国からアラブ人が流入して来ました。ヨルダン、イラク、シリアから何万ものアラブ人たちがやって来ました。その結果、現在パレスチナ・アラブ人と呼ばれる人口が急増しました。第一次大戦前までは、数万人のアラブ人がパレスチナに住んでいました。第一次大戦後から第二次大戦勃発までの期間に、パレスチナ・アラブ人の人口は激増しました。およそ数十万人と言われています。ユダヤ人が入植した結果、アラブ人労働者が流入し、人口が増えたのです。

パレスチナ難民の発生に関しては、1948年の第一次中東戦争・イスラエル独立戦争の際の、パレスチナ・アラブ人や周辺アラブ諸国が採った政策に、その原因があります。次のことは歴史上、周知の事実です。1948年、国際連合はパレスチナ2分割案を採択し、イスラエルとパレスチナ・アラブそれぞれに領土を与え、イスラエルとパレスチナ・アラブ両国の独立を承認しました。この2分割案によれば、エルサレムだけは国際統治下に置くことになっていました。この国連による「2分割案」は、非常に有名です。イスラエルはこの2分割案を承認しました。ところがアラブ人たちは、イスラエルの建国も認めないばかりか、周辺のアラブ諸国と組んで、イスラエルに戦いを挑み、戦争が勃発しました。

この時、周辺のアラブ諸国、現在「パレスチナ難民」と呼ばれている人々に、次のように助言しました。「この戦いは、直ぐに終わる。一週間程度で終わるから、その間、避難していなさい。」そして、彼らは周辺地域に避難しました。一方この時、イスラエルは彼らに次のように言いました。「逃げる必要はありません。大丈夫です。イスラエル国内に留まりなさい」と助言しました。が、彼らはそれを聞き入れませんでした。そして戦いは、誕生して間もないイスラエルが収めました。

イスラエルに留まったアラブ人たちは、戦後も、イスラエルに国民として住み続けることが出来ました。今、イスラエルには、イスラエル市民権を持っているアラブ人が100万人以上います。この人々は、アラブ系イスラエル人と呼ばれています。彼らは、イスラエルの独立戦争、第一次中東戦争の時に、イスラエルの地に留まった人々です。現在、ヨルダン川西岸地域等に住んでいる人々です。

しかし、この独立戦争で、多くのパレスチナ人難民が生まれました。イスラエルの地から一時的に避難し、直ぐに帰れるだろうと思っていた人々です。現在ガザ地区に住んでいる人たちです。

見過ごされている事実があります。この戦争の時、アラブ諸国に住んでいたユダヤ人も、住む家を失い、難民となりました。パレスチナ・アラブ人難民、ユダヤ人難民、両者とも約60~70万人です。しかし、パレスチナ・アラブ人難民が、周辺のアラブ諸国に受け入れられることは殆どなく、難民となりました。ユダヤ人難民は、イスラエルがその殆どを帰還民として受け入れたので、ユダヤ人難民は今存在しません。

パレスチナ・アラブ人難民が存在していることで、周辺のアラブ諸国は、イスラエルを攻撃する口実になるため、或る意味では意図的に難民として存続させました。その後のPLOによる闘争では、アラブ諸国は彼らに資金や武器を提供しました。また、周辺のアラブ諸国は、パレスチナ・アラブ人難民という謂わば厄介者を、自国に受け入れると大変な問題になるという恐れを持っているため、今も受け入れないのです。

4.反ユダヤ主義との戦い

ハマスやヒズボラ、これらのテロ組織を支援しているイランは、極端なイスラム原理主義者たちです。彼らのイスラエルに対する憎悪は、どこから来ているのでしょうか。政治的、経済的、社会的理由だけを考えていても、問題の本質は見えて来ません。彼らのイスラエル人に対する拒絶反応は、イスラム教の教理や世界観から出ています。イスラム原理主義者は、「イスラム教のメシアが到来するための条件は『カオス:大混乱』である」というイスラム教の教理を、丸ごと信じています。イスラム教のメシア:アッラーが到来する前に、地上に大混乱が起こるという教理です。彼らは、世界戦争など地上にカオスが起こることは、人間の努力の結果であると考えているのです。

私たちクリスチャンは、神がイスラエルと結んだ契約は今も有効である、と信じています。また、神は人類救済計画を成就するためにイスラエルをお用いになる、と信じています。「反ユダヤ主義」は、いかなる形を取ろうとも、神のご計画への挑戦です。反ユダヤ主義は結局、神の否定、神への反逆なのです。

イスラエルのため、とりなしの祈りをささげましょう。(1)イスラエルが守られますように。(2)ハマスに利用されている一般のパレスチナ人が守られますように。(3)パレスチナ神話が粉砕されますように。(4)歴史的事実に目が開かれる人が増えて行きますように。

(資料1)イスラエル独立以前の「土地の所有」に関するデータは、次のようになっていました。このデータは1948年以前、当時パレスチナを統治していた「英国委任統治政府の統計」によるものです。ユダヤ人所有地 8.6%。国内に留まったアラブ人の所有地 3.3%(これは独立戦争の時も国外に退去せず、イスラエルの地に留まったアラブ人です)。独立戦争の際、国外に去ったアラブ人の所有地 16.5%。委任統治政府管理の公有地(イギリス政府管理下の公有地) 70%以上。この公有地は、1948年に国際法に従ってイスラエル国に移管されました。合法的に移管されたのです。因みに、この公有地の70%以上は「ネゲブ砂漠」でした。つまり、人が住めないような砂漠が大半だったということです。けれども重要な点は、委任統治政府管理の公有地が70%以上あり、それが国際法に従って、合法的な手続きに基づいてイスラエルに移管されました。このように、イスラエルが所有した土地は、元々アラブ人の土地だったというのは、事実無根のうそ、神話です。

(資料2)バビロン捕囚以降のイスラエルの地の支配者たちは、目まぐるしく変わっています。

第1がバビロンです。異邦人の帝国がイスラエルの地を支配した最初です。

第2がペルシヤ(BC438~BC333年)。

第3がギリシア(BC333~BC63年)

第4がユダヤ人のハスモン王朝(BC142~BC129年)。この王朝は、一時的に自治権を回復しました。

第5番目がローマ(BC63~AD324年)。

第6番目がビザンチン帝国(AD324~638年)。

第7がアラブ人のイスラム教徒による統治(AD638~1099年)。

第8番目が十字軍(AD1099~1250年)。

第9番目がマムルーク(AD1250~1517年)。マムルークとは「奴隷」という意味で、エジプト系の王朝。人種的にはクルド人やトルコ人が混在している王朝。

第10番目がオスマントルコ(AD1517~1917年)。

第11一番目がイギリス(AD1917~1948)。第一次世界大戦後、イギリスが委任統治を開始。

第12番目がイスラエル(AD1948~現在)。

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