レフディムでの3つの体験(1)

岩なるキリスト《出エジプト記 十七・1~7》 12月17日メッセージ

1.レフィディムに宿営する民

《出エジプト記》には3つのテーマがあります。

1.神は約束したことを実行するのだろうか、ということです。つまり、神はご自身の栄光を現すのだろうか。その約束とは、「出エジプト」の世代から400年も前のアブラハムに約束したことです。

2.メシアによる救いと解放の「型」が、《出エジプト記》には数多く例示されているということです。その型を見ると、メシアによる救いと解放が良く分かるようになっています。

3.神は、ご自身の民を新たに造られる、ということです。その民とは、主なる神を礼拝する民です。いつどのような時にも、いかなることが起こっても、主を信頼し、主を礼拝することが、真に解放された姿です。このように信仰の高みへと、主に導いて頂きましょう。

この3つのことは、私たちクリスチャンにとっても、非常に重要なポイントです。

ここまでの流れ:文脈を確認してみましょう。葦の海を渡ったイスラエルの民は、荒野の旅を開始しました。この荒野の旅は、神がご自身の民を訓練する神の訓練学校でもあります。このことは、クリスチャンにも全く同じ事が言えます。私たちも今、神の訓練学校に入れられています。それゆえ、苦難を経験した時、神の霊的訓練として受け取る人は幸いです。

イスラエルの民が通過した訓練学校とは、最初がマラでの体験で、水が苦くて飲めないというものでした。ここでは、民はモーセに向かい不平を言いました。次にエリムでの体験で、民の想像を遥かに超えた休息と充足が与えられました。つまり、苦難の後には、神からの大いなる祝福が待っているということです。第三がシンの荒野での体験で、パンがなくなり、民はモーセとアロンに向かい不平を言いました。民の不平が習慣化、常態化して来たということです。不平を言うことが、彼らの性格の一部になってしまいました。けれども、恵みに満ち溢れる神は、天からのパンを降らせてくださいました。不平を言うことにより、彼らの霊性は相当落ちています。そのことが分かるのが、《十七~十八章》です。

《十七~十八章》にはレフィディムでの体験が記録されています。レフィディムで、イスラエルの民は3つの出来事を経験しました。1メリバの水事件、2アマレクとの戦い、3イテロの助言です。きょうの箇所は、第1のメリバの水事件です。これも主からの訓練でした。

《1節》には、イスラエルの民の旅の様子が描かれています。彼らは、【主】の命により移動しました。彼らは、自分たちの先頭を行く雲が動けば旅立ち、止まれば宿営したということです。つまり、聖霊の導きによって歩んだということです。「旅を続けて」とは、少しずつ移動したという意味です。少し進み、野営し、また進むという旅を繰り返していました。主に従う訓練を受けていたということです。次の宿営地のレフディム迄は、同じ場所に長く滞在することはありませんでした。

レフィディムに着くと深刻な状況に襲われました。これは死活問題、生きるか死ぬかという問題です。民の飲み水がなかったのです。けれども、この出来事も、民の信仰を引き上げようする主からの訓練です。がこの時、民は不満の言葉を口にしました。不満を言うことが性格の一部になってしまいました。不満を口にしても、良心の呵責を覚えることがなくなっています。そして更に激化したのです。彼らの霊性は、救われていない人たちと同じです。肉に属する人です。この世の事にしか関心がない。自分のことにしか心が向かないのです。

もう一度振り返ると、「マラ」ではモーセに向かって「不平」を言いました。「シンの荒野」では、民の不平が習慣化、常態化しました。レフィディムでは、民は「モーセと争った」と書かれています。つまり、「不平」が「争い」に迄エスカレートしたのです。

《2節》がモーセの回答です。モーセは言います。第一に、出エジプトのリーダーは主ご自身である、私ではない、というものです。第二に、なぜ【主】を試みるのか。主は私たちを本当に守ってくださるのか、となぜ疑うのかというものです。

主を試みるとは、次のようなことです。イスラエルの民が裁判官の席に着き、神であるヤハウェを被告人の席に置くという構図です。私たちもイスラエルの民と同じ過ちを犯すことがあります。

《3節》には、群集心理で動いている民が、次第に暴徒化して行く様子が描かれています。彼らの不平不満は次のようなものです。第一に、主は共におられるのかどうか。第二に、私たちの必要を満たしてくださるのどうか。第三に、もしおられるなら、証明してほしい。

当然のことですが、この不信仰から出ている要求は、神を悲しませるものです。彼らは、不満が大きく膨らんでしまったので、マラでの御業を思い返すことが出来ませんでした。

《4節》で、民の不満の声を聞いたモーセは、いつものように祈りました。モーセの叫びは、祈りでもあります。「4 今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」

2.主からの答え――岩を打て

主からのお答えがありました。

(1)杖を手に取り《5節》

「杖を手に取って、行け」という命令の前に、主は2つのことをモーセに命じています。最初が、「民の前を通れ」という命令です。これは、民があなたを打つことはないから、堂々と出て行けということです。次が、「イスラエルの長老たちを何人か連れて行け」という命令です。主が奇跡を行ってくださったことを目撃する証人が必要だから、その証人として民の中の長老たちを何人か連れて行けということです。そして「あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け」と、主はモーセにお命じになりました。民が、モーセのこの姿を見る時、エジプトでの出来事を思い起こし、民の中に希望が膨らむからです。

(2)岩を打て《6節》

「さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ」とは、主が主体的に奇跡を行うという主の約束です。そしてホレブの岩の特定の場所で、主のご臨在のしるしであるシャカイナ・グローリーが現われるという約束です。「あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセがその岩を杖で打つと、水が流れ出るようになる。民は、その岩から出た水を飲むようになる、という約束です。モーセは命じられた通りに行いました。すると岩から水が出ました。岩から流れ出た水は、幾筋もの川となる程、豊かに流れ出たのです。その水は、数百万人の人々と無数の家畜を養いました。

(3)マサ、またはメリバという名前《7節》

《7節》「それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた」と書かれています。この名前を付けたのは、モーセです。なぜかと言いますと、この場所で起こったことをいつまでも記憶するためです。「マサ」とは「試みる」という意味です。「メリバ」とは「争う」という意味です。「『【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか』」と言って、主を試み、主と言い争ったからです。

これは、私たちが犯す罪でもあります。愛する皆さん。私たちクリスチャンは、主の中にいます。「in Christ」です。この「in Christ」こそ、キリストの福音の神髄です。そして、主も私たちの中におられるのです。

3.岩なるキリスト

まとめに入ります。2点、挙げさせて頂きました。

(1)激化する不平不満

民の不平不満は激化し、神の代弁者であるモーセと争うまでになりました。つまり、神と争うまでになったのです。なぜでしょうか。不平を言うことで、霊性が落ち、全てが不満、不平に映るのです。彼らの不平の語調が強くなり、不平不満に思い、それを口にするのが彼らの性格の一部になったのです。以前も述べましたが、「不平、つぶやき、つぶやく」という言葉は日本語聖書で32回使われています。その半数以上、18回が「出エジプト世代」の特徴として使われているのです。彼らの特徴の第一は、不平を言った、つぶやいたということなのです。ここでは、それが更に激化しました。このようになる原因は何かと言うと、主のお考え、主の御心を理解していないことにあります。主は、奴隷であった民を、ご自身の民にするため、訓練をなさっているのです。意識改革です。思いが変わらなければ、行動も変わりません。エジプトでの十の災い以来、いいえ、モーセがエジプトに遣わされた時、民の長老たちの前で行ったしるし以来、主は民に、ご自分が約束に忠実であることを何度も何度も示して来られました。また、民を守ることも何度も何度も示して来られました。更には、エジプトの財産を民にお与えになりました。それでも、民は主に対する思いが全く変わっていないのです。つまり、悔い改める心がないのです。

ただモーセを代表する真の信仰者は、信仰がぐんぐん成長し、主に対する思いが全く変えられました。モーセを代表する真の信仰者だけが、主のお考えと、主の御心とを理解していました。

私たちクリスチャンが不平を言う場合は、イエスさまを信じましたが、そのイエスさまの福音の全貌を理解していないことに、原因があります。パウロが語っている福音を、パウロが理解していたように理解していないのです。それは丁度、モーセとイスラエルの民との関係と同じです。パウロは、キリストの福音の全貌を理解しました。主のお考え、主の御心を正しく伝えてくれました。しかし、主の民であるクリスチャンは、思いが変わっていないので、霊性がどんどん落ち、福音を理解できないのです。《コロサイ人への手紙 一・9~12》に書かれているパウロの祈りを、自分の祈りとして、主に祈ろうではありませんか。《コロサイ 一・9~12》こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

また、イスラエルの民は、エジプトでの主の恵み溢れる奇跡を忘れてしまいました。

私たちクリスチャンは、過去の体験を思い出し、主の恵みを数えましょう。主は私たちと共におられます。主のみことばの約束を信頼しましょう。真理のみことばに立ち、信仰を働かせることを、聖霊さまと共に学びましょう。

(2)私たちの渇きをいやす岩なるキリスト

聖書の中で「岩」ということばが象徴的に用いられる時、それは必ずキリストを指します。

《コリント人への手紙 第一 十・4》みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

人生の旅路において経験する渇きは、ただ主キリストによってのみ癒されるものです。この地上のものによって、私たちの心の深みにある渇きをいやすことは出来ません。

《ヨハネの福音書 四・13~14、七・37~38》イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

《ヨハネの黙示録 二十二・1~2、17》御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

いのちの水とは、聖霊の満たしです。聖霊に満たされることです。私の全ての領域を、聖霊にご支配して頂くことです。

祈り:私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝申し上げます。キリストにより、教会により、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。主よ。キリストの福音の素晴らしさの一つひとつに、私たちが触れられますように。私たちは永遠にキリストの内に入れられています。パウロが理解していたキリストの福音を、私も同じように理解することが出来ますように。そして、この素晴らしい福音を、一人でも多くの人に分かち合うことが出来ますように。一人でも多くの人が救いに至る悔い改めに導かれますように。信じる人を起こしてくださいますように。私たち一人ひとりを聖霊に満たし、用いてください。聖霊さま、教会から離れている兄姉の心に触れてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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