レフディムでの3つの体験(6)

イテロの助言:すべて神の栄光を現すために《出エジプト記 十八・7~17》1月21日メッセージ

1.主にある交わりと、イテロの礼拝――異邦人の救いの型

《出エジプト記》には3つのテーマがあります。

1.神は約束したことを実行するのだろうか、ということです。つまり、神はご自身の栄光を現すのだろうか。その約束とは、「出エジプト」の世代から400年も前のアブラハムに約束したことです。

2.メシアによる救いと解放の「型」が、《出エジプト記》には数多く例示されているということです。その型を見ると、メシアによる救いと解放が良く分かるようになっています。

3.神は、ご自身の民を新たに造られる、ということです。その民とは、主なる神を礼拝する民です。いつどのような時にも、いかなることが起こっても、主を信頼し、主を礼拝することが、真に解放された姿です。このように信仰の高みへと、主に導いて頂きましょう。

この3つのことは、私たちクリスチャンにとっても、非常に重要なポイントです。

《十七~十八章》には、レフィディムで起こった3つの出来事が記録されています。1メリバの水事件、2アマレクとの戦い、3イテロの助言です。きょうは、イテロの助言の第二回目です。イテロが、モーセの妻となったツィポラと、モーセの二人の息子ゲルショムとエリエゼルを連れて、モーセを尋ねて来ました。

イテロは、モーセの義父であり、ミデヤンの祭司です。ですからモーセは、イテロに最大限の敬意を表しました。《8節》には「モーセはしゅうとに、【主】がイスラエルのために、ファラオとエジプトになさったすべてのこと、道中で自分たちに降りかかったすべての困難、そして【主】が彼らを救い出された次第を語った。」と書かれています。

このように、モーセはイテロに出エジプトの出来事を分かち合いました。内容は具体的に、第一に、エジプトの偶像が裁かれたこと。第二に、葦の海が分かれてそこを渡ったこと。第三に、荒野でのすべての困難。第四に、そこから救出されたこと等々です。モーセは、主が良くしてくださったことを一つひとつ思い起こし、イテロに分かち合いました。

モーセの報告を聞いて、イテロは共に喜びました。《ローマ人への手紙 十二・15》には、人間関係を豊かにする秘訣が書かれています。「 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」

《10~11節》には、異邦人であるイテロの主への賛美が記されています。「イテロは言った。『【主】がほめたたえられますように。主はあなたがたをエジプト人の手とファラオの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。今、私は、【主】があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。彼らがこの民に対して不遜にふるまったことの結末によって。』」

《12節》では、イテロが全焼のいけにえをささげたことが記されています。また、神の御前での食事を共に食したことも記されています。「モーセのしゅうとイテロは、神への全焼のささげ物といけにえを携えて来たので、アロンとイスラエルのすべての長老たちは、モーセのしゅうととともに神の前で食事をしようとやって来た。」

これは契約を結んだことを記念する食事です。つまり、イテロは、ヤハウェを信じ、その信仰を告白し、いけにえを主にささげ、ヤハウェと契約を結んだことを記念する食事に与ったことによって、契約の民イスラエルの共同体の一員に加えられたということです。

聖書の中で、「契約を結んだことを記念する食事の典型」は、何でしょうか。それは、一般的に最後の晩餐と呼ばれている、イエスさまと使徒たちが食べた「過越の食事」です。主イエスさまは、この食事の席で、新しい契約を結ばれました。今、イエスをメシアとして信じた人は、その契約にサインをしています。

イテロの信仰告白は、「異邦人の救いの型」です。後の時代、新約の時代になって、異邦人もイスラエルの民と共に救いに与ることの型となっています。これが成就したことが、《エペソ人への手紙 三・6》に記されています。「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」

「共同の」「ともに」と、「共に」ということばを、パウロは3回使っています。「ともに」とは、誰と共になのでしょうか。イスラエルの民と共にということです。イスラエルの民と共同の相続人になったということです。教会がイスラエルに取って換わったと、パウロは解説していません。異邦人は、イスラエルの真の信仰者と共に、約束に与る者となったのです。

2.モーセの多忙と、イテロの助言

《13節》で、モーセは裁判の務めを実行しています。刑事事件・民事事件、倫理上の問題の全てを、民はモーセに告げていました。

《14節》で、イテロはモーセの一部始終を観察しました。客観的に、冷静に観察することは、助言する時の要諦です。個人の考えや偏見を差し挟んで観察すると、必ず自分が言いたいことの材料だけを見つけ出すことになるからです。客観的に、冷静に観察することは、助言する時の要諦です。

そしてイテロはモーセに質問しました。これは、会話を導くための聖書の知恵です。イエスさまも、度々質問なさいました。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜ、あなた一人だけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたの周りに立っているのですか。」

《15~16節》にモーセの答えが記されています。「モーセはしゅうとに答えた。『民は神のみこころを求めて、私のところに来るのです。彼らは、何か事があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神の掟とおしえを知らせるのです。』」

「人々が、神の御心を求めるため、裁定のため、私のもとにやって来る。私は神の掟と教えを、民に伝えるのです」、とモーセは答えています。これは、エジプト王朝のスタイルです。エジプト王朝のやり方を、そっくりそのまま踏襲したのです。

ここから、モーセは人一倍働いたことが分かります。有能なリーダーに求められる資質は、(1)熱心さ、(2)助言や忠告に耳を傾ける謙遜さです。

「すると、モーセのしゅうとは言った。『あなたがしていることは良くありません。』」ここの「良くありません」とは、道徳的、倫理的にではなく、今モーセが行っている方法が正しくないという意味です。つまり、モーセは一人で重荷を担い過ぎている。このままではモーセも民も共に倒れてしまう、ということです。そこでイテロは、次のように助言しました。モーセの預言者としての務めと、民を管理する務めとを分けなさい。預言者としての務めは、モーセがしなければならないことだから、それに専念すること。預言者としての務めは、①民を代表して、神の御前に出ること。②人々の間に起こった事件を神の御前に告げること。③そして神から頂いた教えを民に伝達すること。④そして民がなすべきことを語ることです。

民を管理する務めは、つまり、人々の仲裁、裁定の働きと権威を、他の有能な人に委ねるということです。そのために、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を立てる。彼らを裁き司に任じ、権限を委譲する。リーダーとなるべき人物は、次の四つの資格を持っている者。①判断力のある人。②神を恐れる人。③不正の利を憎む人。④誠実な人。重大な事件はモーセに、それ以外の事件は皆、彼らが裁定すること。

イテロは言います。「もし、あなたがこのことを行い、神があなたにそのように命じるなら、あなたも立ち続けることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。」即ち、イテロは最終的な決定をモーセの判断に委ねたことが分かります。イテロは次のように言っています。この助言を聞き入れるなら、モーセも重労働から解かれ、民も短時間で自分の天幕に帰れるようになる。モーセはどうしたでしょうか。《24~26節》「モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて彼が言ったとおりにした。モーセはイスラエル全体の中から力のある人たちを選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上にかしらとして任じた。いつもは彼らが民をさばき、難しい事件はモーセのところに持って来たが、小さな事件はみな彼ら自身でさばいた。」

神の知識では、モーセは格段に抜きん出た人物です。けれども、モーセはイテロの助言を受け入れ、実行に移すと決意しました。真のリーダーとは、真のフォロワーなのです。イエスさまがそうでした。イエスさまは徹頭徹尾、天のお父さまにお従いしました。

注意すべきことがありますが、ここでは直ぐに「モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて彼が言ったとおりにした」と書かれていますが、実際は、この助言を採用する迄、モーセは主に祈り、熟慮しました。また、民が信仰によって従うことを確認し、実行に移しました。こうして、神の国として変えられていく過程に入れられて行きました。

3.すべて神の栄光を現すために

まとめに入ります。この箇所から、一般的には、教会を組織化しなければならないと結論を導き出します。そして、組織運営に力を入れるようになります。また、組織内の規律に神経をとがらせるようになります。このような罠が存在します。

教会は、主キリストの所有物です。そこで、2つのことをこの箇所の適用として挙げました。

(1)「人」ではなく「ヤハウェ」

《十八章》はすべて、イテロの訪問と助言の記録に割かれています。「どうしてですか」と主に祈りました。そして、この思いが与えられました。

民の目には、モーセのリーダーシップが際立って見えています。モーセを神にでも祭り上げそうな、そんな勢いです。けれども、出エジプトの主体は、民を導き、養い、守り、命令を発するヤハウェご自身であることを、民は明確に知る必要があるのです。《十九章》に入ると、ヤハウェと契約を結ぶ準備に入ります。ヤハウェは、イスラエルの民と一人ひとり、契約を結ぶ神であることを民は明確に知る必要があるということです。モーセの神は、私の神となる必要があるのです。

愛する皆さん。カリスマ性のある人を信頼するのは、人の弱さの一部であることを知らなければなりません。その人に従っていれば安全だ、大丈夫と考えやすい、それが人の弱さです。

そうであってはなりません。私たちは、キリストにだけ信頼する者、みことばにだけ信頼する者として、ヤハウェに選ばれ、救い出されました。

《詩篇 百十九・105》「 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

(2)すべて神の栄光を現すために

そしてもう一つのことは、民の関心は、自らの生活だということです。エジプトから救い出され、ここに来るまでの民の関心は全て、私の食べ物がない、私の飲む水がない、私は疲れたということだけです。殆どのイスラエル人が、主はどのように私を約束の地に導き入れられるのだろうかと、神の約束に期待していないのです。自らの生活の諸問題の仲裁を、人々はモーセに求めて、訴えていました。

愛する皆さん。同じ内容のことが、新約の教会にも起こっています。《使徒の働き 六章》を見ると、クリスチャンたちが、自分の食べ物がないということで、使徒たちに訴え出ました。

《使徒の働き 六・2》「そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。』」

ここでも、「良くありません」と言っています。つまり、教会が採っている方法が正しくない、ということです。最優先にすべきは、神のみことばに仕えることです。最優先にすべきことは、神の御心を行うことです。私たちは、イエスさまによって選ばれ、イエスさまによって任命され、イエスさまによって遣わされています。イエスさまが、私たちの全てについて、面倒見てくださいます。最優先にすべきは、神のみことばに仕えることです。最優先にすべきことは、神の御心を行うことです。

私たちは、キリストと完全に一つになりました。それが「in Christ」です。この「in Christ」の祝福とは、私たちの人生は神のご計画の一部になったということです。主は私たちの全てをご存じで、全てをご支配しておられます。

《ローマ人への手紙 十四・7~8》「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

《コリント人への手紙 第一 十・31~33》「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。」

祈り:私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝申し上げます。キリストにより、教会により、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。主よ、感謝致します。私たちはイエスさまに選ばれ、イエスさまによって任命され、イエスさまによって遣わされています。私たちにどんなことが起ころうとも、私たちは主のものです。イエスさまの栄光を現すことが出来る者とならせてください。主よ。来る2月18日に、この素晴らしい福音を分かち合います。魂を与えてください。救いに至る悔い改めに導かれますように。信じる人を起こしてくださいますように。私たち一人ひとりを聖霊に満たし、用いてください。聖霊さま、教会から離れている兄姉の心に触れてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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