レフディムでの3つの体験(5)

イテロの訪問:「in Christ」で、信仰により試練を乗り越える《出エジプト記 十八・1~6》 1月14日メッセージ

1.イテロの訪問

《出エジプト記》には3つのテーマがあります。

1.神は約束したことを実行するのだろうか、ということです。つまり、神はご自身の栄光を現すのだろうか。その約束とは、「出エジプト」の世代から400年も前のアブラハムに約束したことです。

2.メシアによる救いと解放の「型」が、《出エジプト記》には数多く例示されているということです。その型を見ると、メシアによる救いと解放が良く分かるようになっています。

3.神は、ご自身の民を新たに造られる、ということです。その民とは、主なる神を礼拝する民です。いつどのような時にも、いかなることが起こっても、主を信頼し、主を礼拝することが、真に解放された姿です。このように信仰の高みへと、主に導いて頂きましょう。

この3つのことは、私たちクリスチャンにとっても、非常に重要なポイントです。

《十七~十八章》には、レフィディムで起こった3つの出来事が記録されています。1メリバの水事件、2アマレクとの戦い、3イテロの助言です。きょうは、イテロの助言の第一回目です。

モーセのしゅうとであるイテロが、モーセを訪ねて来たのは、アマレクとの激しい戦いの後でした。激しい苦しみの後の、穏やかな日々のように、イテロの訪問はモーセに励ましと慰めを与えました。

イテロとは、どのような人物でしょうか。イテロは、《出エジプト二・18》では、レウエルと呼ばれています。レウエルは個人名で、「神の友」という意味です。イテロは称号・タイトルで、「卓越した」という意味です。恐らくアブラハムの後妻ケトラが生んだ子ミディアンの子孫だと思われます。そのことが《創世記 二十五・1~4》に記されています。ミディアンという地域には、王はいません。祭司が首長となって、人々を治めていました。イテロとは、ミディアンの祭司であり、王のような存在でした。

イテロがモーセのしゅうととなった経緯は、《出エジプト記 二・16~22》に記されています。エジプトから逃げ出て来たモーセは、ミディアンのとある井戸の側で、羊を飼っていたイテロの7人の娘たちを助けました。このことをきっかけに、イテロは娘のツィポラをモーセに妻として与えました。

ミディアンの地で、イテロはヤハウェがイスラエルになさった全ての事を聞きました。そして、シナイ山の麓の荒野にいたモーセのもとに駆け付けて来ました。イテロは、モーセの妻ツィポラ、長男ゲルショム、二男エリエゼルを伴って、やって来ました。モーセは、この3人の家族を、ミディアンのしゅうとのもとに送り返していました。その理由は、《出エジプト記 四・24~26》に記されています。

エジプトに行く途中、或る所まで来た時、モーセは危篤状態に陥りました。モーセが二男のエリエゼルに割礼を施していなかったことが原因でした。長男が生まれた時、ツィポラがゲルショムに割礼を施した様子を見て、割礼を嫌がったため、二男には割礼を施しませんでした。けれども、このことはアブラハム契約に背くことです。契約に背くモーセを、神は契約の中で約束されている通り、民の中から断ち切ろうとなさったのです。夫モーセの様子を見たツィポラは、直ぐに二男に割礼を施し、夫を死から救いました。妻が割礼という神との契約を嫌がっているのを見て、モーセは家族を実家に帰すことにしたのです。モーセは思ったことでしょう。不信仰な妻を同行させるなら、神の御業の妨害になると。

この家族を帰すというモーセの判断から、私たちには、どのような教訓が与えられるのでしょうか。神を第一にするのか、人間関係を第一にするのか、優先順位の問題です。

《マタイの福音書 十九・29、十・37》「29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」「37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」

聖書では、「愛する」とは「選ぶ」、「憎む」とは「選ばない」という意味でつかわれています。優先順位のことです。イエスさまは、神を第一にすることをお勧めになっているのです。

2.モーセの家族。妻と二人の息子

ツィポラとは「小鳥」という意味です。小鳥のように、絶えずきれいな声で賛美を歌っていれば良いのですが、恐らくその反対だったのでしょう。不平、不満をペチャクチャ鳴らしていたのでしょう。実家に送り返されたツィポラは、多くの祝福を逃すことになってしまいました。

第一に、エジプトに下った9つの災害を目撃出来ませんでした。

第二に、第10番目の災害と、過越の食事に与ることが出来ませんでした。

第三に、葦の海が分かれ、そこを通過する体験を逃しました。

第四に、マラで、水が甘く変わる体験を逃しました。

第五に、エリムでの完全な休息と充足の体験を逃しました。

第六に、マナが降る体験を逃しました。荒野では彼女もマナを食べたでしょう。

第七に、レフィディムでアマレクに対する勝利の体験を逃しました。

ツィポラは、これ以降もイスラエルの民が体験した祝福を逃しました。

イスラエルの民は、レフィディムに滞在した後、シナイ山のふもとに滞在します。期間は1年間です。《民数記 十・11~12》二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。それでイスラエルの子らはシナイの荒野を旅立った。雲はパランの荒野でとどまった。

出エジプトした翌年の二月の二十日に、シナイ山の麓から旅立つのが《民数記 十章》です。その後、《民数記 十二章》に入ると、モーセが再婚していると書かれています。「12 そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女を妻としていたからである。」

これだけの情報から早急に判断してはいけませんが、ツィポラがイスラエルの民と共に荒野の旅を経験したのは、僅か1年か、2年のようで、直ぐに天に召されたようです。不信仰とは、このように、神を体験的に知る恵みを失うことになるのです。

長男のゲルショムという名前は、「寄留者、異国人」という意味です。これは、私が帰るべき地はカナンの地だけ、というモーセの信仰告白を、長男の名前にしたことによります。つまり、地上では旅人、寄留者であることを告白しながら生活していたということです。

二男のエリエゼルとは、聖書のここにだけ記されていますが、意味は「神は助け手」です。モーセは、次のように考えていたようです。私の父の神は私の助け、ファラオの剣から私を救い出された。エジプトから逃げおおせることが出来たのは、先祖の神の助けだと。

3.「in Christ」で、信仰により試みを乗り越える

(1)モーセの信仰告白

二人の息子の名前を理解すると、神の約束に信頼を置くモーセの信仰姿勢が見えて来ます。神の約束を信頼し、そのみことばに従って歩む者こそ、最終的に大いなる祝福を受けるのです。聖書の原則は、恵みにより、信仰によってということです。神は一方的に与えてくださるので、私たちは神を信頼し、また神の約束のことばを信頼して、受け取るだけです。

今の新約の時代、神の御心は「in Christ」に集約されています。私たちの救いは、神の御目には「in Christ」で完成、完結しています。私たちは、この神の約束のみことばを信頼して受け取るだけです。そうではあっても、私たちの実践面は、その「in Christ」の真理に追い付いていない状態です。まだ完成していません。でも、重要な事があります。私たちは、永遠のいのちを既に持っているということです。

《ヨハネの手紙 第一 五・13》神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。

愛する皆さん。イチョウの木のぎんなんが芽を吹いた時の様子を見たことがありますか。新しいイチョウの木は、正にイチョウの木であり、イチョウの葉です。イチョウの命に溢れています。

同じように、私たちはキリストの復活のいのちを持つ者です。私たちのいのちは、キリストの復活のいのちです。キリストが私たちのいのちなのです。私たちは、キリストのかたちを持っているのです。私たちの歩みは遅くはあっても、今互いに、聖霊によって、少しずつ成長している者です。天のお父さまが、必ず完成へと導いてくださいます。

(2)信仰により試みを乗り越える

モーセは、恵みにより、信仰によって、幾多の祝福を体験しました。ツィポラは、それらを逃しました。彼女が、不信仰を選択したからです。

ニューヨークのスラム街に、劣悪な環境に置かれた双子の兄弟がいました。お父さんは薬物中毒。そしてアルコール依存症。毎晩のように酔っぱらって帰って来ては、二人の息子に暴力を振るいます。止めに入ったお母さんに対しても、殴る蹴る。そんな生活に嫌気がさしたお母さんは、或る時、二人の子どもを置いて、家を出て行きました。

それから30年後、この双子の兄弟も、それぞれ結婚して、家庭を持ちました。

長男は、父親と同じように、薬物と酒に溺れ、子どもたちに暴力を振るう、そんな父親になってしまいました。奥さんは、子どもを連れて逃げて行きました。長男はホームレスになってしまいました。その後、或る心理学者が、この双子の兄に聞きました。「あなたは、どうしてこんな境遇になってしまったのですか。」兄は答えました。「あんな家庭で育った私に、これ以外の選択があったと思いますか。」

弟も結婚し、ビジネスで成功し、家庭を持ち、優しい夫となり、良き父親になっていました。心理学者が、この双子の弟に聞きました。「あなたのような境遇に育って、どうしてこういう状況を手に入れたのですか。」弟は答えました。「私のような環境に育った者が、これ以外の選択肢があったと思いますか。」

同じ答えを言ったのです。二人は、劣悪な環境で育ちました。双子の兄弟ですから、遺伝子的にもほぼ同じでしょう。生まれ落ちた環境、育てられた環境も全く同じと言って良いのです。でも彼らが結婚して、それぞれ家庭を持った時には、全く対照的な家庭となったのです。

この出来事は、私たちに次のことを教えています。或る出来事は、不幸、幸福という色合いを持っていない中立的なもので、その出来事をどう理解するのかということによって、その出来事が良きものになったり、悪しきものになったりするということです。

よく言われることです。「私たちには、人生で起こることは選べません。でも、起こったことに、どう対処するかは、選ぶことが出来るのです。」兄は、父親の真似をすることを選びました。そうすることによって、全く同じ家庭を築きました。弟は、生まれ育った環境、また父親を、反面教師にすることによって、父親とは全く違う家庭を築いたのです。

私たちには、何かを選ぶことの出来る自由意志があります。選択する自由が与えられています。何を選び取るかによって、全く違う結果を手に入れます。

主を信頼し続け、みことばを選び取り続け、「in Christ」で、試みを乗り越えて行きましょう。

《コリント人への手紙 十・13》あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

《ガラテヤ人への手紙 六・7~8》思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

「In Christ」で、よみがえりのいのちを体験して行きましょう。

祈り:私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝申し上げます。キリストにより、教会により、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。主よ、感謝致します。私たちは既に、よみがえりのいのちを持っていまし。キリストの福音の神髄である「in Christ」が、私たち一人ひとりに成就しているからです。この「in Christ」を理解し、「in Christ」で聖霊さまと共に歩む体験を毎日することが出来るように、決心致します。パウロが理解していたキリストの福音を、私も同じように理解し、体験することが出来るよう、今日より決心致します。そして、この素晴らしい福音を、一人でも多くの人に分かち合い、多くの人が救いに至る悔い改めに導かれますように。信じる人を起こしてくださいますように。私たち一人ひとりを聖霊に満たし、用いてください。聖霊さま、教会から離れている兄姉の心に触れてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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