1月2日 たゆみなく祈りなさい

たゆみなく祈りなさい。《コロサイ人への手紙 四・2》

興味深いことに、聖書には祈りに励んだ人々、祈りついての教えと戒め、また祈りに伴う約束の記事が、ふんだんに散りばめられている。聖書の最初の書、《創世記 四章》には、「そのころ、人々は【主】の名を呼ぶことを始めた《創世記 四・26》」と書かれている。また最後の書、《ヨハネの黙示録》が終わるに当たっては、「アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように《黙示録 二十二・20~21》」と主に熱心に祈ることばで締めくくっている。聖書には、祈りの実例が幾つも記されている。神と格闘するヤコブ、日に三度祈るダニエル、心を込めて神を呼ぶダビデなど。山上で祈ったエリヤ、獄中で祈ったパウロとシラスがいる。

祈りの戒めも約束も数え切れない程ある。これが祈りの重要性、必要性を示すものでなくて、何であろう。神がことばを尽くしてお語りになった真理は、私たちの日々の生活にとって重要なことであり、必要不可欠なことである。神が祈りについてこれ程多くのことばを費やしておられるのも、祈りが私たちにとってどれ程必要であるかを、神がご存じだからである。

私たちは乏しい者である。しかもそれは、深刻な状態にある。天の御国に入るまで祈りを止めてはいけない。あなたには何の不足もないと言うのか。もしそうなら、あなたは自分の貧しさを知らないのである。あなたは神の憐れみを求めなくても良いと言うのか。もしあなたが求めようとしないなら、私は祈り求めている。主の憐れみがあなたの惨めな状態を示してくださるように。

祈りのない魂は、キリストのない魂である。祈りとはまさに、赤ん坊が語り始めるのに似ている。イエスを信じ始めた信者が、主に向かってたどたどしく語り出す片言である。祈りはまた、戦っている信者の叫びでもある。更に祈りは、臨終の床にある聖徒が、イエスの中に眠る時の歌でもある。祈りはクリスチャンの呼吸である。また、合言葉であり、慰めであり、力であり、誉れである。

もしあなたが神の子なら、父である神の御顔を慕い求め、また父なる神の愛の中に生きることを望むはずである。この年も、あなたが全く謙遜な者であるように、熱心な者であるように、忍耐強い者であるように、主に祈りなさい。キリストとの深い交わりに入ることを求め、実践しなさい。キリストの愛を受け取り、キリストの愛を実感しなさい。あなたが他の人の模範となり、祝福となるように祈りなさい。更にあなたが、主の栄光のために生きることが出来るように祈りなさい。この年の標語は、「たゆみなく祈りなさい」でなければならない。

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