5月15日 信じる者はみな義と認められる

この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。《使徒の働き 十三・39》

キリストを信じる者は、「今」義と認められている。信仰は、段々に義の実を結んでいくのではなく、「今」結ぶのである。義と認められるのは、信仰の結果だからである。

魂がキリストと交わり、キリストを全ての全てとして受け入れた瞬間、魂は義と認められるのである。神の御座の前に立っている者は、今、義と認められるのであろうか。私たちが義と認められているのと同様に、彼らも真実にまた確実に義と認められている。彼らは白い衣を着けて歩み、天上の立琴に会わせて美しい讃美を歌っている。

十字架上の強盗は、信仰の目をイエスに向けた瞬間、義と認められた。数十年、主に仕え、老齢を迎えたパウロと、一度も主に仕えたことのない、十字架のこの強盗とを比較するなら、どちらがより義と認めらたのか。両者には、何の変わりもない。同じように、義と認められたのである。

私たちは、今日、最愛のお方によって受け入れられ、今日、罪を赦され、今日、神の法廷で無罪と宣言されているのである。

何と、魂を揺さぶる思いであろうか。かつてモーセによって遣わされた12人の斥候はエシュコルの谷で、たわわに実ったぶどう一房を、二人で担ぎ、持ち帰った。同様に、私たちが天の御国に入るなら、地上では味わえない大いなる祝福が待っている。しかし、これは壁の上を伝って伸びている大枝のようで、私たちはこの地上で、その枝に実る房を頂き、恵みを味わうことが出来る。この恵みは、私たちがヨルダン川を越えるまで、即ち死を経るまで、決して食べることの出来ない穀物のようではない。今、人生という荒野において、天から与えられるマナであるイエス・キリストの中で味わえる。今、天に向かいつつも、あちこちと旅をする私たちに、神が日ごとに与えてくださるみことばの滋養が、その一つである。

私たちは今、そうである、今この時、罪赦された者である。今この時、私たちの罪は取り除かれている。今この時、かつて一度も罪を犯したことのない者のように、神は私たちをご覧になってくださる。私たちは、神の御前に、そのような者として立っているのである。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。《ローマ八・1》」今この時、神のいのちの書に名前のある全ての信者の記録には、罪が一つも記されていないのである。

神の民を訴える者は、誰か。全地の裁き主がご覧になる時、神が義と認め、信者とされた者の内、一人にでも、しみや汚れ、しわやそのような類いのものは一つも残っていないのである。

今この地上で付与されている特権を、私たちが今知り、今すべき義務に目覚めることが出来ますように! そして今、この地上で生きている限り、自らの生涯を愛する主のために使い果そう。また、愛する主に、私たちの生涯を、ご存分に使って頂こうではないか。

注:「エシュコルのぶどうの木」。《民数記 十三章》。モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民は、約束の地カナンを目前にするカデシュ・バルネアにやって来た。その時、約束の地カナンを探らせるため、各部族から一人ずつ斥候:偵察隊を出すようモーセに進言する。12人の斥候にモーセは命じる。「カナンの地をよく調べて来なさい。土地は肥えているか痩せているか。住民は強いか弱いか。町々に城壁が有るか無いか。勇気を出して、その地の果物を取って来なさい。」12人の斥候は、エシュコルの谷でぶどう一房を切り取って来たが、二人が棒で担ぐほど豊かなぶどうであった。スポルジョンは今朝のメッセージで、エシュコルをキリスト者に約束された地:「天の御国」にたとえて語っている。

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