5月7日 彼らをみな癒された

大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。《マタイの福音書 十二・15》

イエスがご覧になっていると、実にひどい病に苦しむ「大勢の群衆が」押し寄せて来た。そのような時、「イエスは群衆に嫌気をさした」とは聖書に書かれていない。どのような状況でも、主は忍耐強く人々に仕えてくださった。

イエスの足元には、実に多種多様な疾病を病む者が集まって来た。その疾病に苦しむ人の症状は、目をおおいたくなるほど悲惨であった。傷口が腐りかけた者、うみを吹き出している腫瘍を病んでいる者などが、大勢いた。

しかし主は、新種の疫病に対し予め備えておられた。その病は、今まで見たこともない化け物のように、人に襲い掛かって来るものである。そして実際、その難病の一つひとつに対して打ち勝ってくださった。どの方向から火矢が飛んで来ても、その燃えるような力を消した。熱病がもたらす熱を鎮め、水腫がもたらす悪寒も鎮めた。中風で寝たきりの人も癒し、錯乱状態で怒り狂っている人も癒した。重い皮膚病を病む者をきよめ、失明した人の目をいやされ、見えるようにしてくださった。これらの病はどれも、力ある主のみことばの前には無力であった。主がお命じになると、全ての病はたちどころに癒された。主はたびたび、辺ぴな野で「大勢の群衆…をみな癒やされた。」全ての疫病や病に対して勝利を取られた。病を癒され、救われた人は、イエスに忠誠の誓いをささげた。主は彼らのことばをお受けになった。

主は人々の間に来られ、その惨状をご覧になり、至る所で勝利を得られた。主は、今朝も同様のことをなさっておられる。私の容態がどうであろうと、私の最愛の医者は癒すことが出来る。また今この時、私が祈りの中に覚えている人をも、主は癒すことが出来る。私はイエスにあって、その希望を持つのである。祈りに覚えている人が、いかなる病にかかっていようとも、イエスは必ずその罪の病を癒すことが出来ると確信している。主の力強い御手により必ず癒してくださることを忘れずに、私の子ども、友人、最愛の人の名を一人ずつ呼び、全員を主の御前に希望を持って、とりなすのである。

私自身に関して言えば、自らの罪深さと激しく戦い、病弱にもがき苦しんでいる。しかし、依然として元気で、勇気を奮い起こすことが出来る。地上におられた時、病人を訪ねて癒された主は、今もなおその恵みを分かち与え、人の子たちの間で奇跡を行っておられる。私は自らの罪深さと病弱の場を離れて、直ちにイエスの御許に行かせて欲しいと、熱心に願っている。主の御許に行くには、神の方法による以外にない。

この朝、私はイエスを賛美しよう。イエスは、霊と魂の病を癒された。その奇跡によって、イエスはご自身がメシアであることを証明なさった。わが魂よ。イエスの御業を忘れてはならない。イエスは、私たちの病をご自分の身に負われたのである。「彼の打ち傷によって、私たちは癒された《イザヤ 五十三・5》」と書かれいてる通りである。

地上に置かれている教会には、私たちの最愛にして最善の「医者」によって癒された魂が満ち溢れている。そして天に住む者たちも、イエスは「彼らをみな癒された」と告白している。

それゆえ、わが魂よ、来なさい。イエスの恵みの御業を世に語り伝えよ。こうして世に向かい、「これは【主】の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる《イザヤ書 五十五・13》」ことを、告げ知らせなさい。

5月6日へ  5月8日へ   5月の目次へ  「きょうのみことば」へ

コメント