都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。《ヨハネの黙示録 二十一・23》
千年王国の後に到来する永遠の都では、そこに住む民にとって、被造物から得られる慰めは必要ない。そこに住む者には、衣服も要らない。彼らは白い衣を着る。それは、決して擦り切れることもなければ、汚れることもないのである。
また、永遠の都に住む者には、病を治す薬も必要ない。「そこに住む者は『私は病気だ』とは言わ《イザヤ 三十三・24》」ないからである。また、体力を回復するための眠りも要らない。彼らは、昼も夜も休むことなく、神の聖所で神に賛美をささげるのである。
更に、慰めや励ましを与えるボランティアに参加し、隣人に仕える社会的な関係も要らない。特定のある団体に所属するなら、そこで多くの仲間と交わり、幸福感を味わうことが出来る。しかし、その幸福感がどんなものであろうと、それは都の住人にとって必要ではない。主と交わることこそ彼らの願いである。また、主との交わりこそ、彼らに最大の幸福感をもたらすものである。
永遠の都の住人は、教師を必要としない。もちろん神について親しく語り合うが、他の者によって神の知識を教えられる必要はない。彼らは、主ご自身について、主から全て教えられるからである。
私たちがこの世で受けているものは、王の門で受けている施しのようなものである。しかし、永遠の都の住人は、まさに王の食卓に着き、王のご馳走に与るのである。この世では、私たちは仲の良い人たちの腕に寄りかかっている。しかし、永遠の都の住人は愛する御子にのみ寄りかかる。この世では、私たちは友の助けを借りなければならない。しかし、永遠の都の住人は、キリスト・イエスの中にすべての必要を見い出す。この世では、私たちは滅びるべき肉体に注意を払い、虫に食われる衣服にも注意を払っている。しかし、永遠の都の住人は、一切を神の中に見い出す。私たちは、バケツで井戸から水を汲んでいる。しかし、永遠の都の住人は、いのちの水の流れ出る水源に行き、その泉に唇をつけて飲む。この世では、天使が私たちに祝福をもたらす。しかし、永遠の都の住人は、もはや天の御使いを必要としない。また、神からの愛の手紙をもたらす、天使ガブリエルも必要ではない。なぜなら、顔と顔とを合わせて神を見るからである。
全ての根源は、神である。神は、私たちの求めにお答えくださり、働いてくださる。私たちの求める一切の必要や状況を乗り越え、直接神ご自身の御手の中に抱かれ、憩う時、それは何という祝福された時であろうか。その日、被造物ではなく神が、主の御業ではなく主ご自身が、私たちの日々の喜びとなる。何という栄光に溢れる時ではないだろうか。その時、私たちの魂は完成を迎える。無上の喜びを味わう魂、栄化された魂へと変えられるのである。
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