10月6日 いのちの水を飲みなさい

わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。《ヨハネの福音書 四・14》

イエスを信じる者は、主イエスの内に次の二つを見い出す。一つは、今、信仰者が抱えている必要や願いに対し、主イエスの内で十分に供給され、満たされるということ。もう一つは、永遠に「人の心に思い浮かんだことのないもので」、主イエスの内にあって満たされるということである。

信仰者とは、慰めを求めて、疲れた日々を送っているような人ではない。また、心を健やかにすることばに飢え渇いて、長い夜を過ごしている人でもない。信仰者は、自らが確信していることに喜びと慰めを見い出し、その喜びと慰めは、泉のように湧き出ている。それゆえ、信仰者は満足し、幸いな日々を送るのである。

信仰者を牢獄に入れてご覧なさい。彼は、牢獄でも良い友を見つける。信仰者を不毛の荒野に置いてご覧なさい。彼は、そこでも天からのパンを食べる。また、信仰者から友の交わりを取り去ってご覧なさい。彼には、「兄弟よりも親密な者《箴言 十八・24》」が出来る。信仰者の上に心地良い影を落としている「とうごま」を枯らしてご覧なさい。彼は、世々にわたり救いの岩であるお方の十字架の影を見い出す。信仰者がこの地に望みを置いているものを砕いてご覧なさい。彼の心は尚、主を信頼し、揺るぐことはない。

人の心は、イエスが入ってくださるまでは、墓のように飽くことを知らない。しかしイエスが来られるなら、その人の杯は満ち溢れる。信仰者にとって、キリストの中に満ち満ちるものがある。それゆえ、キリストだけが全ての全てとなる。真の聖徒は、イエスが全てを備えてくださることに完全に満足している。それゆえ、キリストの生ける泉から更に多くを飲みたいという渇き以外に、信仰者は最早渇きを覚えることはない。

信仰者よ。キリストの生ける泉から更に多くを飲みたいと、あなたは麗しい渇きを覚えるのである。それは苦痛を伴う渇きではない。キリストの愛に満たされたいという渇きである。あなたは、イエスの愛を更に十分に味わい、体験的に知りたいと飢え渇いて求めるようになる。このことが、非常に麗しいことだと知るに至るであろう。

昔の人は言った。「私は、幾たびも井戸につるべを下ろし、水を汲んで来た。しかし今、イエスを知った私は、イエスに対し飽くことのない渇きを覚えるようになった。それゆえ、イエスという井戸そのものに、唇を直接つけて飲みたいとまで切望するようになった。」信仰者よ。あなたは今、このように感じているだろうか。あなたの全ての願いは、イエスの内にあって満たされていると感じているだろうか。それゆえ、イエス以外には何も願わないだろうか。ただイエスを更に知り、イエスと更に親しく交わりたいと感じているだろうか。そうであるなら、絶えず水源であるイエスのもとに来て、いのちの水を自由に飲みなさい。あなたがいのちの水を飲み過ぎた、とイエスが思われることなどあろうはずがない。むしろ、いつでもあなたを歓迎し、次のように仰せられる。「愛する者よ。来て、飲みなさい。豊かに飲みなさい。」

注:「とうごま」は、《ヨナ書》に出て来る植物である。イスラエルを攻撃したアッシリア帝国の首都ニネベ(現在のイラク北部)に遣わされた預言者ヨナに、神は「とうごま」によって日陰を提供した。しかし翌日、神はこの「とうごま」を虫に食わせ、枯らせた。日陰が亡くなり、炎天下にさらされたヨナは、このことをひどく怒った。その時主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」このように、神は全ての人が悔い改め、救われることを願っておられる。

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